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白狐稲荷社(白狐稲荷神社) 諏訪市四賀 18.8.5

 「白狐稲荷社」は、長野県神社庁の表記です。

 荻宮社の前に、小さいながらも凝った造りの木祠があります。居合わせた人から「聖徳太子を祭ってある」と聞き出しましたが、その際に「彫刻が細緻」と持ち上げたことで新たな局面が展開しました。
 地元とあって詳しいのでしょう。「あれが白狐稲荷神社で彫刻が見事だ」と言います。続く言葉をガイドに指の先を見ると、上川の手前に木々の一塊が見えます。この時点ではまだ関心がなかったのですが、「諏訪の芸者衆がお詣りにきて賑わった」に興味を持ちました。過去形ですが、何か惹かれるものがあります。

白狐稲荷社

 少なくとも二、三台と踏んだ駐車場は見当たらず、代わりとなる空地もありません。行きつ戻りつの末に、「路上駐車(違反)をするより」と近くにある諏訪警察署の駐車場を借用しました。

用水と白狐稲荷社
24.6.24 撮影

 「神社の前」というか鳥居を正面にする位置に立つと、…前は川です。白狐稲荷社背後の堤防が「上川(かみがわ)」ですから、こちらは用水路でしょうか。橋がありませんから、「川岸に呆然」という状態です。
 左方には堰があり青い水門が見えますから、そこから取り入れた水が「」状に分流して神社を挟んでいることがわかりました。こうなると、鳥居の前に立つには、境内の“右肩”に接して上川を渡っている県道しかありません。
 堤防が高いので、「鷹野橋」手前が盛り土されて高くなっています。境内を見下ろしながら狭い県道を進むと、ガードレールが途切れた間に下に降りる階段がありました。

白狐稲荷神社 諏訪市教育委員会が設置した境内の案内板では、「祭神は、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)で、嘉永元年(1848)大隅流大工伊藤亀蔵らによって造られた。一間社流造、軒唐破風をつける」とあります。
 赤い鳥居と宝珠と眷属(けんぞく)の狐が何か肌に合わないので、昔から「お稲荷さん」には何か胡散(うさん)臭いイメージを持っています。覆屋の中を覗いても、そんな先入観がありますから、扉の格子から文字通りの「ノゾキ」では何か落ち着きません。諏訪市指定文化財の本殿は「彫刻が見事」という評価ですが、思い切りよく左側に視線を移しました。

「剥製の白狐」白狐稲荷神社 何と「白狐」です。ガラスケースに入っていますから剥製でしょうか。しかし、「出来過ぎ!?」の言葉がその前に立ちはだかると、シッポ以外は犬のように見えてしまいます。祟る話が多いお稲荷さんです。合成の剥製では祭神は納得しないから本物でしょう。
 その真偽はさておいて、シャッタースピードが1/2秒という暗さです。フラッシュを使うと1/60と早くなりますが、ガラスに反射してしまいます。カメラを格子に押し付けて手ブレを防ぎました。
 一区切り付いたので、冒頭の惹かれ文句に興味を移しました。果たして、花街のお姐さん方の“夢の跡”は残っているのでしょうか。覆屋の床や壁には小さな狐の置物が多く見られますが、彼女らが奉納したものとは限りません。格子の前から離れて社殿の横に回ってみました。

白狐稲荷神社の玉垣 覆屋を囲む玉垣には、お稲荷さんですから商売繁盛でしょうか、それを願う社標を付けた商店や事業所名が多く彫られています。
 社殿の背後に回り込むと、中央寄りに写真の三柱が見つかりました。下諏訪の芸妓組合と遊郭・上諏訪の遊郭貸座敷の名前があります。目に触れにくい場所にひっそりとあることに何か想いを寄せてしまいます。私は花(色)街には全く経験がない世代ですが、その石柱に木漏れ日が当たっているのに何故か心が安まりました。
 白狐稲荷社は前後が川という異色の鎮座地です。それが勧請由来に関係がありそうですが、今回は何もわからぬまま引き揚げました。

念仏供養塔

念仏供養塔 白狐稲荷社の境内には、社殿に背を向けた格好の石碑がありました。のぞき込むと、神社には全くそぐわない「南無阿弥陀佛」と彫られています。ここは上川堤防の直下なので「洪水で亡くなった人の供養塔」としました。
 その後、「藩主の子供の胞衣(えな)は白狐のお宮の境内に埋めた、という言い伝えがあり、念仏供養塔が建てられている」ことを知り、その石碑が供養塔であったと理解できました。

白狐稲荷社と用水

 四賀村誌編纂委員会『諏訪四賀村誌』から、「白狐稲荷神社」を抜粋して紹介します。

白狐稲荷神社は、諏訪郡諸村並旧蹟年代記に、

 白狐島正一位稲荷大明神、一国一社信州稲荷の惣本社也

と記されている。(中略) 今井黙天は、郷土第六巻第55号「信州稲荷の総本社」で、

 ここに稲荷神社が祀られているのは、小和田田んぼ数百町歩の灌漑用水、藩主の御用水として上川を堰き止めた湛え(※堰)との関係を考えなければならない。灌漑用水の引き入れ口に稲荷社を祀ることは、中世以降全国的に見られることなので、白狐の湛えのできた年代と、お稲荷様を勧請した年代とは、大体一致していると思われる。

と述べ、御用水の湛えを作ったとき、湛えの守り神として勧請したのではないかとしている。

白狐稲荷社は若宮

 白狐稲荷社の場所を江戸中期の『諏訪藩主手元絵図』で見ると、「若宮」の字が見られます。また、明治4年の『上桑原村戸籍図』では「白狐若宮」です。稲荷と若宮はどう考えても結びつかないので、「白狐島」の“縁”で、若宮に倉稲魂神を合祀したことも考えられます。
 中世に書かれた『祝詞段』では、「神戸ニ鎮守・若宮サンソン・ガウノ木(神ノ木)ノ明神」を挙げています。この若宮が現在の白狐稲荷社とすれば、祭神の交代があったとしても、その由緒は中世までさかのぼらせることができます。

白狐島

 資料には「口碑では、当時は島であった白狐島付近は葦原で、棲みついた白狐が作物を荒らしたので、除くために京都伏見から稲荷社を勧請した」とあります。
白狐島 今では全く信じられませんが、当時の諏訪湖には「諏訪七島」と言って、高島城がある「高島」を始め、今でも大字(おおあざ)として残っている「飯島」や「福島」などがあったそうです。その中で唯一の奇名が「白狐島」です。その名が付けられたからには、例えば「スワシロギツネ」というような固有種が棲息していた可能性もあります。しかし、神社名が島の名になったと考えた方が自然でしょう。
 上図は、田中阿歌麿著『諏訪湖の研究』に載る「第52図・永禄元年(1558)の諏訪湖」です。ただし、高島に描かれた「城郭」は、現在の高島城ではありません。

芸者衆は舟で参拝

 「神社前の用水路は中門川」と、新たに得た知識を連れて再び訪れてみました。境内の外縁を観察すると、白狐稲荷社は、中門川と用水に挟まれた中洲の先端部にあることがわかりました。左方の取り入れ口から始まる用水も、神社後ろの狭い間隙を縫って上川と並行して流れていました。

船着き場から見た白狐稲荷神社の鳥居 疑問に思った「川に落ちて(降りて)しまう表参道先の石段」を、農道で草刈りをしていた男性に尋ねてみました。「舟着場だったのでは」と、断定には10%ほど足りない答が返ってきました。
 改めて見回しても、桟橋の痕跡はありません。舟から降りたと仮定して、川岸に堆積した砂地に降りてみました。振り返って鳥居を正面にし、シミュレーションを開始しました。石段を登り・左の手水鉢で口と手をすすぎ・幟枠の間を通り・石の鳥居と赤い鳥居をくぐって拝殿前へ、最後は参拝と続きました。やはり、お姐さん方は「野崎小唄」にあるような屋形船で諏訪湖から用水路を伝って来たのでしょうか。現在では絶対見ることができない白狐稲荷社の賑わいを、映画やテレビで見たシーンを参考にして“復元”してみましが、私の想像力では…。

上川と中門川

 周囲の地理をうまく説明できないので、『Google Map』を表示させました。
 右下の中門川が、薄く表示している堰(ダム)によって分流し、神社の裏を通って「用水路」に続きます。
 []で拡大すると、川辺に[]状の出っ張りが表示します。思い当たるのは「船着き場」しかありませんから、堆積した砂の下にはまだその遺構が残っているかもしれません。

白狐稲荷社初午祭 21.2.8

 初午祭にかこつけて本殿の写真を撮りに出かけました。商売繁盛の神様とあって(今日ばかりは)なかなかの賑わいでした。また、拝殿の扉は計算通り開いていました。

白狐稲荷神社本殿 氏子の方に断ってからカメラを向けますが、上の赤幕と下の賽銭箱が邪魔で本殿の全景が撮れません。さらに、感度を400に上げても1/8秒です。フラッシュは使いたくないのですが、やむを得ず光らせました。
 自宅で確認すると、外縁はクッキリ写っていますが、彫刻細部の立体感が失われています。結局、無理を承知でフラッシュを使わずに撮った一枚を“ベスト版”としました。

白狐稲荷社鬼板 撮影時に、本殿唐破風の鬼板が「諏訪梶」であることに気が付きました。稲荷神社専用の神紋「宝珠と“5円玉”」が目の前の定紋幕に大きく見えていますから、「お稲荷さんなのに、なぜ」という疑問が湧きます。すぐに、諏訪大社ではなく高島藩主である諏訪家の紋であることに思い当たりましたが…。前述の「藩主の子供の胞衣」の関係で、本殿の造営に藩主家が大きく関わったのでしょう。
 記帳もせずお賽銭も上げなかったせいか、新聞で知っていた「甘酒」の振る舞いは、私は対象外のようでした。焚き火に当たりながら粘ったのですが、引き揚げるまでその口が掛かることはありませんでした。