大正13年出版の『諏訪史』に載る〔川岸村遺跡地全景〕の平成版を撮ろうと、川岸に出掛けました。
熊野神社を参拝してから、対岸の橋原を眺めながらロケハンをします。木々が生長した分だけ山の輪郭が薄れていますが、御嶽神社の下から、ほぼ同じ写真を撮ることができました。
このまま帰るのももったいないので、しばし記憶の底を探ると、私が名付けた「大永の水神」が光りました。
場所は、広畑遺跡の近くとわかっています。かすかに残る記憶を頼りに、まずは山際を目指しました。
山裾を巡る林道をしばらく歩くと、現れた白木の鳥居が白山神社でした。その下を流れる小沢の源が水神碑としましたが、その先に立ちはだかる石碑群はすべて白山神社関連でした。「どこにあるのだろう」とその背後に廻ると、壇上に、「こんなに小さかったのか」という水神がありました。
左が白山社ですが別項とし、まずは水神を目の前にしました。しかし、何か変です。石質の違いと思われる縞目があります。命に関わる水の神様だから、このような珍しい石に刻んだと考えました。
「大永二年」は1522年ですが、室町時代後期とわかってもピンときません。調べて「千利休の出生」を挙げてみました。
さっそく、「大永二年」を目でなぞりました。しかし、確かに「大永」ですが、「干支(えと)」がありません。ここで、俄(にわか)に建立年の信憑性が…。
こうなると、その時代に「水神」を石に刻んで祀る風習があったのだろうかという疑問も湧いてきます。
念を入れて碑の背後を確認すると、「昭和六十二年十二月十二日・修復三沢区神社委員会」が読めました。ここで、水神碑をコンクリートで覆い固めて修理したことがわかりました。かなり傷んでいたことが想像できますが、直前まで奇石・珍石と思い込んでいたので拍子が抜けました。
また、水神碑の管理が三沢区であることがわかり、御柱がないことも理解できました。このように、「白山神社には、大変古い水神がある」という漠然とした知識でしたが、ここに、現地を訪れて私が見た大永の水神を紹介することができました。
大永の干支は「壬午(みずのえうま・じんご)」でした。この干支を省略するのは間々あることなので、真贋の判断を下すことはできません。しかし、私としては、下諏訪町の「万治の石仏」や辰野町の「永正2年の道祖神」と同じカテゴリーに入れるしかありません。
写真は、神社の入口から望遠で撮った、白山神社の本殿というべき祠です。
大きく破損していますが、三沢区誌編纂委員会『三沢の歴史』を読んで、「なるほど」と思いました。
同書から〔修験道〕の一部を転載しました。
写真を撮った時は単に人工の滝を造ったとしか思わなかったのですが、行者が水垢離をする修行の場と見直しました。