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日吉神社「謎の石祠」 諏訪郡原村大久保 22.9.26

 原村で全戸配布された原村教育委員会『新田開発四百年記念誌 郷土の歩み』に、大久保の日吉神社にある石祠について興味深い文が載っていました。要点はマーキングした部分です。

 大久保新田は十七世紀前半の開発とされているが、鎮守である日吉神社には文明四(1472)年の石祠が存在する。この石祠と大久保新田の開発は百七十年以上の隔たりがあるにもかかわらず、この石祠を鎮守の森に安置し崇敬しているのは、大久保の開発に携わった人たちと、少なからざる関係があったと見るべきであろう。今後の解明を待つものであるが、現在考えられる要素を列記し、問題提起としたい。

 原村民である私も「何のことやら」ですから、全文を読み、時代背景を少し補足してみました。

日吉神社 かつての八ヶ岳西麓は諏訪神社上社(現諏訪大社)の御狩場「神野(高野)」として保護され、立ち入りが制限されてきました。
 ところが、江戸時代に入ると高島(諏訪)藩が新田の開発を奨励したので数々の新田ができました。その一つが「大久保新田村」として成立すると、標題にある「鎮守社の日吉神社」が造られました。
 ここまでは他の新田村と同じです。ところが、この神社の本殿が、大久保新田村の“有史以前”の石祠であることから、私を含めた物好きな人を悩ますことになります。人が住む以前からあった祠とすれば、八ヶ岳山麓の歴史を塗り替えるほどの歴史ドラマがあったことになります。

諏訪の古祠

 私が知っているのは、湖東(こひがし)の駒形社石祠二棟「寛元二年(1244)・正元元年(1259)」・宮川の駒形神社石祠「永禄四年(1561)」・玉川の御小屋明神社石祠「天正十二年(1584)」で、いずれも茅野市にあります。
 日吉神社の石祠は「文明四年(1472)」ですから、このラインナップでは古物ベスト3に入ります。ダントツに古い駒形社の祠も「新井新田の開発以前」のものですが、土中に埋まっていたものが掘り出された経緯から、文献にも見られる官営牧場「大塩牧」との関連が有力とわかっています。しかし、大久保の石祠はその存在理由が不明です。

現在考えられる要素 再び『郷土の歩み』から、「文明の石祠」の続きを紹介します。勝手ながら、(手持ちの知識から思いついた)私の考えを「赤字」で挿入しました。

1 大久保新田の開発関係者が前任地で崇拝していた祠(屋敷神など)を、新天地開拓の守り神として移住の際、携えてきた。

2 すぐ脇を「信玄の棒道(中の棒道)」が通っていた。その道の管理者が派遣されてこの地に住み、代々伝わる守り神を甲州から携えてきて祀った石祠を後、大久保新田が鎮守社とした。
 管理者なら“転勤”の可能性があります。わざわざ重い石祠を運んできたとは考えられません。

3 柳沢の御手洗社と同様に、諏訪神社上社の御柱関係者が入山に先立ち「修祓」の神事を行うために祀られた祠と考えられないか。なお、「殿様御枕屏風」では、大久保新田の位置に「よきとぎ場」と記されていることから、御柱祭の神斧を研ぎ、お祓いをするための神を祀ったことがあって、その石祠が残されたのか。
 『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』の「小屋場新田」に、「(前略)御宝殿材木取立又は御柱伐候節の小屋場也、御柱引道筋より北の方に御柱伐之節登道有、右辺に斧とぎ場道上に四人・道下に四人居とぐ」とあります。「小屋場新田村」とあるので、大久保新田村とは関係ないと思われます。

4 文明十五(1483)年は、上社大祝家と諏訪領主家との間に内訌(ないこう※うちわもめ)があった年である。そのころ社家側の人物が文明四年に作られた祠に神霊を分祀して持ち込み、この地に籠もるようなことがあったとも想像され、その石祠が残されたという可能性も考えられる。
 この頃はまだ式年造営が行われていたはずですから、社家ならプライベートな祠であっても木造が必至でしょう。また、逃亡者の立場ですから重い石祠は“同行”できません。

 他人が知恵を絞ったものを、「消去法」という心苦しい方法で[1]を残しました。原村在住の中村久太郎著『近世の中新田村』を読むと、「新田村で諏訪明神を祀らなかったのは、自分の村には自分の出身地の氏神を祀ったものと考える」「現原村の草分(初めに開拓した人)の人達は県外より来たと考えられる」とありました。
 『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に「大久保新田」が載っています。

草分與(よ)次右衛門、慶安元年(1648)甲州逸見筋新井村出村より茂右衛門、(茅野市)横内村より牛山出る、(後略)
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 同じ村内の「中新田(旧中新田村)」も、甲州から来た金山採掘夫がルーツとも言われています。新井村は特定できていませんが、原村―富士見町―山梨県北杜市と続く「北杜市」は「逸見筋」に含まれます。「はるばる遠くから」ということではないので、何かの縁で原村の新田開発に関わった人が故郷の文明四年に作られた石祠を持ち込んだとしました。

日吉神社

 去年の話になりますが、日吉神社の石祠を確認するために大久保へ出かけました。ところが、境内をくまなく廻っても「文明4年」の文字を見つけられません。写真もないので推定もできません。結局、本殿として拝殿の奥に納められていると理解しました。

日吉神社
日吉神社拝殿と境内(20.9.18)

 平成28年9月4日、6年越しの懸案が決着しました。

日吉神社文明四年の本殿
文明4年の祠(28.9.4)

 「今日は小宮祭」と聞いて日吉神社に駆けつけると、思惑通り拝殿の扉が開いています。その前に立つと、奥に石祠が二棟並んでいました。
 ここの主題は「文明四年の祠」ですから、右の祠を切り取って載せました。山梨県の北西部(逸見筋)に同時代・同形状の石祠があれば、そこから運ばれたことが証明できるかもしれません。

日吉神社の“由緒”ある由緒

 前出の『近世の中新田村』を改めて読むと、「神社」の章に「日吉神社」があります。目を通すと、思わずうなる「事」が書かれていました。多くの神社が「由緒不詳」とある中では、全国的に見てもこれは極めて希な例でしょう。
 ここに、大久保区で明治41年に発見された神社資料が、「官幣大社日吉神社」の古記録謄本と一致し、社務所から「證明書」が発行されたと書いてあります。官幣大社日吉神社は、現在の日吉神社総本社「日吉大社」のことです。以下に、その資料を紹介します。

奉分霊比叡の神霊於信濃國諏訪ノ者
 于時(ときに)文明四壬辰卯月吉日
 淡海國
日吉祢宜内蔵頭税部宿弥 胤長等奉遷

 これにより、明治15年の『神社明細帳』「日吉社 村社 祭神・大山祇命 創立不詳」は、「祭神・大山咋命(くいのみこと) 創立年代・文明4年」と改められたそうです。それにしても、言い伝えの力「恐るべし」です。神社と祭神名がほぼ正確に伝えられてきたことに感心してしまいました。
 再び『近世の中新田村』です。

 大久保区の伝承によると、文明年間諏訪明神の神官の交代に、藤原氏が使者として装束拝領に京都(吉田家)に行った帰り、近江坂本村の日吉神社にお参りし、御分霊を受け現在地に祀ったと言う。使者の藤原氏は誰か、また前出記録にも諏訪の者とあるのみ、当時の大久保の地は如何様な状態であっただろうか。何故この地に祀ったか疑問である。

 「日吉神社と石祠」は解明しましたが、その頃はまだ原野であるはずの大久保に、諏訪神社の“御柱”や御狩神事に関係ない日吉神社の存在は考えられません。「170年間の空白」は依然として残ったままになりました。
 「村の体裁も整ってきたから鎮守神社を造ろう」という話に、「諏訪の人」が勧請して作った祠を、どのような伝(つて)かわかりませんが、大久保の地に持ち込んだということでしょう。そして、総本社日吉大社が見たら「目を剥く」御柱を、大久保の人達は建ててしまいました。