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北斗神社と泰一社 諏訪市中洲神宮寺

 諏訪大社上社本宮の近くに、道の分岐「分かされ」があります。山手にある木製の鳥居に気が付けば、導かれるように、その間から延びる石段の終わりに小さな社殿を仰ぐことができます。

北斗神社
北斗神社の赤い灯 (14.8.8)

 誰も気に留めない存在と思いますが、私は、仕事帰りには必ず正面となるその神社をつい見上げてしまいます。特に意識するのが冬で、青く沈んだ雪明かりの斜面を、そのワット数以上に赤く染めている裸電球の灯りが怨念の炎のように見えることがあります。

現在は蛍光灯

北斗神社

北斗神社参拝 14.4.14

 ごく普通に登り始めましたが、石段は、大石の手前で終わっていました。踏み跡の凹みに靴先を乗せますが、草地の急斜面なのでかなり緊張しました。再び現れた石段の中央部には手すりが付いています。管理者が、万が一を恐れて設置したのでしょう。実際、下を振り返るとかなりの恐怖感があります。その恐怖度を数値化すると、最大斜度45度となりました(実際は、石段の水平・垂直の長さから40度未満でしょう)。

北斗神社の御柱
北斗神社と一之御柱

 二段になった猫の額ほどの平地が境内でした。平といっても傾斜がある上に石が乱雑に露出しているので、つまずいて転落しないように移動にも気を遣います。

 右端に、御堂があります。蚕玉社他を祀ってあることを確認してから、中央にある「岩盤を少し刳り抜いて何とか収まった」という北斗神社の前に立ちました。

 下から見えた社殿は鉄格子の扉という覆屋で、中には、さらにステンレスの網で囲われた本殿がありました。しかし、社殿額「北斗神社」の文字だけが全てなので、どのような神社なのかわかりません。鉄とステンレスで二重にガードされている意味も不明です。
 由緒としては、灯籠に「物部」姓があるのが唯一の手掛かりです。高遠の「物部守屋神社」との関連性を思いましたが、結局は、「北斗神社を間近で見ただけ」というのが今日の成果でした。

 細野正夫・今井広亀著 『中洲村史』から転載しました。

北斗社と
白鳥弥四郎
女沢を越して下町からの道と合流する辻の右手に片山の北斗神社がある。急坂を斜めに一六〇mほど登った所で、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祀り、寿命の神様と崇敬され、手製の縄をもって参詣し、御礼にも縄を上げる。大戦中は参詣者が余り多いため、その便をはかり地元の有志の計らいで、下から真っすぐに石段を造りはじめたが敗戦になり、石段も完成しないままになっている。昔は重病人があると明りをつけて、一晩中熱心に願がけし、おこもりをした人もあった。
「160m」は、石段ができる前の旧参道です。

 「戦争中は参詣者が…」という記述に、思わず分厚い『村史』から目を上げ、出征兵士を送った家族の願いと石段を造営した地元村民の思いをしばし巡らせました。
 これで、参道の石段が途切れていたことが理解できました。また、白鳥弥四郎が文政7年に刻んだ本殿の彫刻が盗難に遭ったことで、鉄格子の扉にしたことも分かりました。さらに、「天の中央にあって宇宙を統一する天之御中主神」を北極星に当てて祭神にしたのが北斗神社。古事記の「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神…」から、初めて現れた神=最長寿と考えた「寿命の神」と知識を増やしました。

北斗神社再拝 15.7.20

 前回は手ぶらで訪ねた北斗神社ですが、今回は、その後に得た知識を手みやげに再び登ってみました。

北斗神社の願掛け縄 左は、前回はその意味を知らなかったため気にも留めなかった、というより全く目に入らなかった北斗神社覆屋に掛けられている「縄」です。色の違いから二つの間にはかなりの年月の隔たりがありそうです。ようやく願いが叶ったお礼のセット品なのか、時間差のある(今でも叶わない)二人の奉納品なのかは知る由もありません。色の褪せ具合からそれほど古くはないようですから、今でも願を掛ける人がいるのでしょう。
 右に一部写っているのは、地元の人に教えられた「ネズミ除け」のステンレスの囲いです。編み目が細かいので、彫刻が優れているとある社殿の造りは見えません。奥の左右には千羽鶴も掛かっていました。

北斗神社の灯明皿 左右の壁にある木枠の突起は縄を掛けるものと思っていました。ところが、よく見ると小皿が置き忘れたかのように置かれています。今日は「灯りをつけて願掛けお籠もりがあった」という知識を得ていましたから、受けの形状から灯明皿を置く枠と直感しました。

 再拝するまでに、『北斗神社物語』として、資料の限られた文字を題材に幾度となく脚色をしてきました。
 「やはり、舞台設定は夜でしょうか。それも凍てつく深夜です。星のように明滅する灯明に、たまたま通り合わせた人も思わず手を合わせたに違いありません。その上に北斗七星が…」というものです。しかし、日の下では、本物の縄と灯明皿の小道具を見ても、頭の中の舞台と違い何か乾いたものになってしまいました。

奉献泰一社 灯籠の「物部」が気になるので、「祭主 物部安貞」を写真に収めました。正面は「奉献 泰一社」で、裏に文政九年の年号がありますが、反対側(正面左)は足場がわるいため確認できません。
 この灯籠は一基しかありません。右脇に小さな石祠がありますが、「三社神社」とあるので灯籠とは無関係となりました。かつては泰一社が存在していたことになりますが、北斗神社の別名が「泰一社」とも思えます。

 右側に文字庚申があります。下の神社入口にも昭和の文字庚申があったことから、長寿を願う北斗神社と命を縮めることを防ぐ庚申待ち・庚申信仰の関連性を思いました。しかし、単に同じ目的ということで、庚申側が場所を借りたということでしょう。
 本殿前では、神仏に頼るしかなかった時代にちょっぴりタイムスリップしてみましたが、帰りは、止まない雨にすっかり濡れた土と草に何回もスリップしてしまいした。

「奉献泰一社・物部安貞」 19.3.10

 北斗神社の右にある小祠が「天社(天神社)」で、左隣が秋葉・三峯・金毘羅を祀る「三社」です。左端が、問題の「奉献泰一社・物部安貞」とある灯籠です。

北斗神社
“空中浮揚”して撮った北斗神社境内

 厳冬期のキリリと締まった空気は、今や過去のものとなりました。しかし、大地の彩度は未だ変わらず、仰ぐ北斗神社も寒々しい姿を今に留めています。久しぶりに、その石段を登ってみました。

 足首から上は完全に空中に曝(さら)されています。視覚的には目の前の石段を含む斜面が左右に広がっていますが、登るにつれ背中が何か心許なく全く落ち着きません。
 中程にある大石から一部途切れていた石段は、コンクリート仕様ながら全通していました。その白さから去年の内に完成していたのでしょう。本殿の前に立つと、自分にとっては北斗神社のシンボルとも言える、灯明にも似た裸電球でしたが、すでに蛍光灯に代わっていました。

北斗神社と「泰一社」 今日は、灯籠の左側面に彫られた「願主」の下に、「當村 赤羽長右衛門・高遠 守屋甚兵衛」の名が読み取れました。自宅で調べると、守屋甚兵衛は物部守屋神社がある旧片倉村の石工でした。


北斗神社境内にある「守屋社」 「天社」の身舎(もや)側面には「守屋氏」と刻まれています。北斗神社とは別物の祭神ですから、守屋の名があっても、近在からこの場所へ移された可能性があります。


守屋神社 倒壊して屋根が見当たらない「守屋神社」(左写真)の小祠も、「祭主・守屋氏」と確認できました。

 こうなると、北斗神社の周辺にある様々な事物が現す「物部」と「守屋」から、物部安貞のバックには「物部守屋」を祀る人々がいたと考えてしまうのは自然な流れとなります。しかし、今日は境内社と灯籠の詳細を調べるのが目的です。日陰の寒々しさに耐えかねて、早々に下りました。

太一社

 地元神宮寺の郷土史研究家「たくろ」さんから、メールを頂きました。

北斗社の「安貞」は、最後の禰宜太夫の一代前の人です。「泰一」は「太一」で北極星のことだと思います。

 さっそく「太一社」をネットで検索すると、愛知県岩倉市の神明太一社が多く表示します。しかし、祭りの紹介のみで、「なぜ太一社なのか」がわかりません。ならば「“太一 北斗”でどうだ」と再検索すると、「北斗の拳」を始め、伊勢神宮から道教までの、私から見ると全く別世界のサイトが羅列しました。
 それらを拾い読みをする中で、「太一(たいいつ)=北極星=天照大神」「北斗(七星)は太一の周囲を回る」に注目しました。
 これは後の話ですが、テレビで伊勢神宮「神嘗祭」の様子を放映していました。その中の「初穂曳」では、新米の俵を乗せた荷車(山車)の車輪に、大きく「太一」と書かれています。提灯にも「太一」「太一」「太一」でした。

祢宜太夫・物部安貞

 「物部安貞」は、諏訪神社上社「五官」の一つ祢宜太夫とわかりました。「語り継ぎ神宮寺の民俗」刊行委員会編『語り継ぎ神宮寺・民俗編』に、「片山北斗神社の改修」があります。

 往年大祝の五官の権勢が盛んだった江戸時代には長沢の片山は、東半分を「矢島権祝」、西半分を「祢宜太夫守屋」が宰領した。(中略) さてこの片山西半分の頂上付近に北斗神社の社殿が真北を指して建つ。守護神は「天御中主命」で寿命の神様として昔から近郷の篤い信仰を集めている。この境内は守屋祢宜太夫の宰配地であったから、文政八年(1825)北斗神社を勧請した。側の燈籠に物部安貞の刻印があって北斗神社由来の鍵となっている。(後略)

 地元の研究者も、キーワードが「物部安貞」にあるとまではわかっているようですが、まだ北斗神社の鍵穴に合わせられないでいるようです。
 細野正夫・今井広亀著 『中洲村史』の〔村を行く〕から、〈祢宜太夫邸址〉の一部を転載しました。

 祢宜太夫は五官のうち神長官に次ぐ地位の職で、遠祖は建御名方命の御子神八杵命とつたえている。はじめ小出氏といっており、一族栄えてその勢いは神長と争うまでになり、文明十六年十二月六日の「大祝職位事書」には満実と大祝の職位で争ったことが見えている。天文十一年の乱に祢宜満清は高遠信濃守に組して滅亡し、以後は神長官の支配に属し、その子孫が継いで明治維新まで続き、終わりは祢宜太夫守屋要人であった。

分家が「守屋」

 高部歴史編纂委員会『高部の文化財』の〔祢宜太夫の邸跡〕に

(前略) 祢宜太夫はその後、信玄が名づけ親になった守屋信実(神長・守矢頼実の子神平)が継ぎ、信実は後に神長官になっているようである。彼が祢宜職を継いだ時、邸は長沢の北斗神社下、分かされの北側へ移ったと思われるが、今はその痕跡もなく、普通の民家が建っているだけである。
 祢宜太夫守屋家は維新まで続き、最後の職は守屋要人であった。ちなみに、守屋神長家は本家だけ守矢姓を名のったのである。それが乱れたのは、明治以降である。

とあるのを見つけました。諏訪大社の研究者なら周知の事実でしょうが、ここに来て、守矢氏の分家を「守屋」氏としたことを知りました。伊那市高遠町の「物部守屋神社」とは関係ありませんでした。この流れで、灯籠の「物部安貞」は「守屋安貞」本人となったわけですが、なぜ「物部」姓を名乗ったのかは謎のままです。

北斗神社は祢宜太夫家の屋敷神 22.9.28

 「北斗」とは余りにも特異な名称なので、別称か、後世に改称された可能性を考えていました。ところが、本殿を造った棟梁・白鳥弥四郎の『萬扣帳』に「神宮寺村長沢町片山北斗社…」と書いてあることを知り、幕末の創建時から「北斗神社」として造られたことがわかりました。

 祢宜太夫邸跡を調べるために、グーグルマップを広げました。拡大すると北斗神社の石段が表示し、北斗神社が祢宜太夫邸と密接な関係があることに気が付きました。

 地図中央の分岐[maru]は、同名のバス停がある「わかされ(分去)」です。県道16号は、田圃の中に開通した新しい道なので無視してください。
 この地図に北斗神社から北向きに線を引くと、祢宜太夫邸跡と交差します。ただし、現在はその場所に民家が建っているので正確な位置は不明です。そのため、「一ブロック」をで塗った表示にしました。

 「北斗七星」から神社が北に向いているのは不思議ではありませんが、屋敷から見れば、当然ですが南向きになります。これは「なぜ北斗なのか」が解明できない限り、「北斗信仰」より「守護神が屋敷を見下ろす・見守る」と考えた方が無理がないと思えます。

北斗神社と祢宜太夫邸 諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』の〔神宮寺村〕から、該当する部分を切り取りました。グーグルマップに合わせるために回転させましたが、絵図なのでピッタリとはなりません。
 『絵図』が編纂されたのは享保18年((1733)ですから、この時代の祢宜太夫は、「守屋采女(うねめ)」とわかります。

北斗神社から見下ろす しかし、守屋安貞が、ミシャグジではなく、諏訪では唐突とも言える天御中主命を祭神としたのはなぜでしょうか。また、勧請元の本社はどこにあるのかという謎は残ったままです。
 最後に、北斗神社から見下ろした「祢宜太夫邸跡附近」の写真を追加して、『北斗神社と泰一社』を終わらせることにしまました。