諏訪大社と諏訪神社トップ / 諏訪の神社メニュー /

もう一つの藤島神社(附 神塚) 諏訪市清水 25.3.22 改稿

神塚

 以前より名水「御膳水」が気になっていたので、秋葉神社の周辺を散策することにしました。参拝を済ませてから目的がないままに右手の窪地に沿って登ると、…異様な光景が目に飛び込んできました。

神塚

 初めは土が流れたロックガーデンと思いましたが、右に回り込むと、最上部の石は古墳石室の蓋石としか見えません。

神塚 頂部に建つ碑が正面になったので、「神塚」と読めました。左右に「昭和十九年十月十五日・平林市兵衛建之」「神朝臣守矢真幸敬書」と彫られています。ここで、戦後に諏訪大社の宮司になった守矢家の当主・守矢真幸さんの名が出てきたのに驚きました。
 下方の、まだ土だけの菜園で男性が手を動かしていますが、尋ねても「隣なので知らない」としか得られません。隣は「隣の地区」という意味のようですから、この辺りに見えない境界線があるのでしょう。思わぬ拾いものの「神塚」ですが、その正体がわからぬまま自宅へ戻りました。

『顯幽本記』に見える「藤島大明神」

 松澤義章著『顯幽本記(けんゆうほんき) 夏之部二』から転載しました。嘉永元年(1848)から五年に書かれた書物です。

 下桑原郷(※諏訪市)内の清水町東の山手に秋葉大権現の社あり、此は元より藤島大明神の社地なるべく思わるる也。按うに太古湖の大いなりし頃は湖にさし出たる地なるべければこの地名を藤島と言えるなるべし。
 予が二十歳ばかりの頃までは藤島大明神の宮此町の両側の町並にありて共側に空地凡そ二、三十坪ばかりあり。此はこの神の社地の在(のこ)れるなれといかに為しけむ。今は皆町屋となりて其の宮も有るやなしや知らず成れり。
 今の秋葉大権現の宮の上の山に大石もって蓋のごと為したる古家の周りは土も石も皆失せて蓋の如き大石ばかり在り共、下は虚(うつろ)にて小児などの出入りして遊ぶ所あり。此は正しく此藤島神の家なるべし。此を推(おし)て考えれば、先(さき)つ年まで藤島大明神の宮の有りける地より此家の辺りにかけて此家の兆域(ちょういき※墓所)なりけれど、今の官道を開かれてより以降夫(それ)に隔てられて此社地は二つに分かれ、西の方一方ばかり藤島大明神の社地となり。
 東の方一方は空地にて有りけるを田圃(たはた)とも為し、尚其の残れる空地にいずれの頃か秋葉大権現を勧請為しなり。其れは秋葉大権現という神に家の有るべき理なきをもって藤島大明神の社地なるという也。
 三沢村の藤島大明神は祖神(おや)にて下桑原郷の藤島大明神は其御子神にますにか、又下桑原郷の藤島大明神は祖神にて三沢村の藤島大明神は別(こと)なる故由(ゆえよし)ありて斎き祭れるにか其はいまだ詳(つはら※つまびらかならざれど、今の秋葉大権現の社地は藤島大明神の社地なること疑いあらしと思わるるなり。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 「現在の諏訪市清水町に、東側が陵域・西側を社域とする藤島明神の社地があった。その後甲州街道の開通による社地の分断で、いつの間にか陵域の空地は耕作地となり、さらに秋葉神社も建ってしまった」と要約してみました。これは「諏訪大社上社縁(ゆかり)の藤島神社が清水町にあった」という話ですから、訝(いぶか)りながらもすっかり惹き付けられてしまいました。

 何回か読み直す中で、「大石もって蓋のごと…」が、まさに神塚の光景であることに気が付きました。

 そうなると、「秋葉大権現という神に家の有るべき理なき…」が難解でしたが、現地で「秋葉神社(他)の社殿が、まるで境内の平地を避けているかのように山の斜面に貼り付いている」ことを見ていましたから、「秋葉神社の境内地は、元々は(または、今でも)藤島明神(神社)の社地」と理解できました。

 神塚を、埋蔵文化財として調べてみました。

大石古墳 古くから神塚、塚屋とよばれてもいた秋葉神社南方の山間部にある小扇状地を清水窪(しみずくぼ)という。南西方に向かって強い傾斜をもち、国道二〇号線を中段に、下方はJR線辺まで続き沖積地に達している。
 清水窪は弥生中期、後期土器の発見があり、標高七九〇mの上方に大石古墳が石槨を露出している。(中略)
 大石古墳は山間部北側に築造され、南方に開口する横穴式石室古墳である。天井石は大石材三枚以上がみられ、石室内はほとんど土砂で埋没している。
 円墳は推定約一八m、石室は推定約七mとみられ、石室主軸は南北方向である。副葬品については全く不明である。
諏訪市『諏訪市史』

 古墳としては具体的な説明を得ることができましたが、当然ながら“学術的”には神塚と藤島大明神との関連は不明のままです。

 「神塚」碑を建立した平林市兵衛さんと守矢真幸さんの関係が気になります。諏訪市の史跡でもない古墳に“わざわざ”「神(の)塚」碑を建てたのは、藤島明神(藤島明神の墓)の伝承が昭和初期には“あった”ということでしょうか。その関係で守矢家の当主に謹書をお願いしたとも想像できますが、今となってはその真相(経緯)はわかりません。

諏訪七島の「藤島」は、清水町にあったのか

 松澤義章さんは、別書の『洲羽国考』では「洲羽之海考」で「藤島」を取り上げています。

 今の下桑原の藤島の御社の地は古の時藤島と云える島なるべし。古の人は水の四方に周(めぐれ)る地をも、又湖などに臨める地をもなべて嶋とは云える也。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 かつての諏訪湖には「諏訪七島」があり、その一つが「藤島」だそうです。諏訪大社の摂社「藤島神社」の大字(おおあざ)が「中洲」ですから、その鎮座地が「島(砂州)」であったことは考えられます。
 一方の清水町にも砂州があり、彼がこれを「藤島」として「藤島の御社」に関連付けたのは注目に値します。諏訪明神が洩矢神に勝った証しに投げた藤枝が「諏訪湖の対岸であるこの地まで届いた」とすれば、諏訪明神の雄叫(おたけ)びと歓喜の大きさが知れるし、この話の雄大さも伝わってきます。

清水町にもあった藤島神社

神塚 諏訪市教育委員会『諏訪高島城』の折込地図に、「慶應四年(明治元年)八月御覧に付出来下絵図也…」と書込がある『城中城下の図』がありました。清水町の周辺をルーペで拡大すると、印刷の解像度が高いこともあって「藤嶌社(藤島社)」の文字を見つけることができました。

 この絵図は(藩主)忠誠公(ただまさこう)の命で作ったとありますが、明治初年という時代では、藤島社に鳥居と社殿が描いてあっても、実情は周囲の民家に圧迫されて廃社同然の状態であった可能性があります。松澤義章さんが「二十歳頃はあったが、皆町屋となった」と書いているのはそれが原因でしょう。いずれにしても、彼の記憶にある「藤島大明神の宮(社域)、此町の両側の町並みにありて」が確認できました。

 現在、国道を挟んだ高台に「高尾穂見神社・藤島神社」があります。絵図の場所に神社が見当たらないことから、藤島社はそこに移転して「藤島神社」と改称したのではないかと思い当たりました。ところが、現地で確認した藤島神社の由緒には「福井市の新田義貞公を祭神とする藤島神社を勧請した」と書いてあります。本社の藤島神社は明治9年の創立ですから、時代が合いません。どこへ消えたのでしょうか。

 清水町鎮座の藤島神社は古図の中に確認できましたが、その“流転”は“推察”になってしまいました。しかし、松澤義章さんが「藤島神社の由来は不詳だけど、秋葉神社の境内は藤島神社のものに間違いなし」とした話には説得力があります。公図で確認すれば「地主は宗教法人藤島神社」というようなことになっているかもしれません。

藤島社跡を推定

稲荷
東京美術篇『甲州道中分間延絵図』(部分)

 後日、文化3年の奥書がある『甲州道中分間延絵図(ぶんげんのべえず)』を開くと、街道沿いに、赤い鳥居があります。これだと思ったのですが、拡大すると「稲荷」でした。藤島社は街道筋からは奥まった場所にある小社なので、記載されなかったのでしょう。
 やむなく、前出の『城中城下の図』を基にして「藤島社跡」を設定してみました。まず、絵図の中央にある梯子状のものが石橋ですから、それに繋がる太線が用水路となり、街道に連なる人家と用水路の間が藤島社となります。これを衛星写真に重ねてみました。


藤島社跡 左上の信号「清水町1・2丁目」が石橋に相当しますから、そこから弓状に延びている細い道と国道の間に藤島社があったことになります。右から国道に合流する細道も“現存”しているので、その延長線との交点に藤島社跡を設定してみました。
 最後の仕上げに現地踏査としましたが、(不審者に思われないように)歩道からチラチラと視線を注ぐ程度では、確認できませんでした。


‖関連 サイト内‖ 「高尾穂見神社・藤島神社」