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もう一つの藤島神社 諏訪市清水 29.11.4 改稿

 その後に見つけた事跡をブレンドして、最終章にまとめました。その分長文になりましたが、土砂災害の歴史がある地なので、心して読んでください。

神塚 24.4.15

 以前より上諏訪の名水「御膳水」が気になっていたので、秋葉神社の周辺を散策することにしました。参拝を済ませてから目的のないまま右手の窪地に沿って登ると、…異様な光景が目に飛び込んできました。

神塚

 初めは土が流れたロックガーデンと思いましたが、右に回り込むと、最上部の石は古墳石室の蓋石としか見えません。

神塚 頂部に建つ碑が正面になったので、「神塚」と読めました。左右に「昭和十九年十月十五日・平林市兵衛建之」「神朝臣守矢真幸敬書」と彫られています。ここで、戦後に諏訪大社の宮司に就任した守矢家の当主・守矢真幸さんの名が出てきたのに驚きました。
 下方の、まだ土だけの菜園で男性が手を動かしていますが、尋ねても「隣なので知らない」としか得られません。隣は「隣の地区」という意味のようですから、この辺りに見えない境界線があるのでしょう。思わぬ出合の「神塚」ですが、その正体がわからぬまま自宅へ戻りました。

『顯幽本記』に見える「藤島大明神」

 松澤義章著『顯幽本記(けんゆうほんき) 夏之部二』から転載しました。嘉永年間(1848-1854)に書かれた書物です。

 下桑原郷(※諏訪市)内の清水町東の山手に、秋葉大権現の社あり。此は元より藤島大明神の社地なるべく思わるる也。按(おも)うに、太古湖の大いなりし頃は湖にさし出たる地なるべければ、この地名を藤島と言えるなるべし。
 予が二十歳ばかりの頃までは藤島大明神の宮此町の両側の町並にありて、共側に空地凡そ二、三十坪ばかりあり。此はこの神の社地の在(のこ)れるなれといかに為しけむ。今は皆町屋となりて、其の宮も有るやなしや知らず成れり。
 今の秋葉大権現の宮の上の山に、大石もって蓋のごと為したる古家の周りは土も石も皆失せて蓋の如き大石ばかり在り共、下は虚(うつろ)にて小児などの出入りして遊ぶ所あり。此は正しく此藤島神の家なるべし。
 此を推(おし)て考えれば、先(さき)つ年まで藤島大明神の宮の有りける地より此家の辺りにかけて此家の兆域(ちょういき※墓所)なりけれど、今の官道を開かれてより以降夫(それ)に隔てられて此社地は二つに分かれ、西の方一方ばかり藤島大明神の社地となり、東の方一方は空地にて有りけるを田圃(たはた)とも為し。
 尚其の残れる空地に、いずれの頃か秋葉大権現を勧請為しなり。其れは秋葉大権現という神に家の有るべき理なきをもって藤島大明神の社地なるという也。
 三沢村の藤島大明神は祖神(おや)にて下桑原郷の藤島大明神は其御子神にますにか。又下桑原郷の藤島大明神は祖神にて、三沢村の藤島大明神は別(こと)なる故由(ゆえよし)ありて斎き祭れるにか。其はいまだ詳(つはら※つまびらかならざれど、今の秋葉大権現の社地は藤島大明神の社地なること疑いあらしと思わるるなり。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 「現在の諏訪市清水町に、東側を陵域とする藤島明神の社地があった。その後甲州街道の開通による社地の分断で、陵域は耕作地となり秋葉神社も建ってしまった」と要約してみました。これは「諏訪大社上社縁(ゆかり)の藤島社が清水町にあった」という話ですから、訝(いぶか)りながらもすっかり惹き付けられてしまいました。

 何回か読み直す中で、「大石もって蓋のごと…」が、まさに神塚の光景であることに気が付きました。

秋葉神社
秋葉神社の社地(29.11.4)

 さらに、「秋葉大権現という神に家の有るべき理なき…」が難解でしたが、現地で「秋葉神社(他)の社殿は、山の斜面に貼り付いている」のを見ていたので、「秋葉神社は、藤島明神の社地を避けて山際に創建した」と理解できました。もしかしたら、現在も登記上は藤島神社の土地…。

 ここで「神塚」碑を振り返ってみると、史跡でもない古墳に“わざわざ”「神(の)塚」碑を建てたのは、藤島明神陵の伝承が昭和19年にはあったということでしょうか。それがあって、平林市兵衛さんが諏訪神社(現諏訪大社)上社に最も縁がある守矢家の当主に謹書をお願いしたとも想像できます。

 神塚を、埋蔵文化財として調べてみました。

大石古墳 古くから神塚、塚屋とよばれてもいた秋葉神社南方の山間部にある小扇状地を清水窪(しみずくぼ)という。南西方に向かって強い傾斜をもち、国道二〇号線を中段に、下方はJR線辺まで続き沖積地に達している。
 清水窪は弥生中期、後期土器の発見があり、標高七九〇mの上方に大石古墳が石槨を露出している。(中略)
 大石古墳は山間部北側に築造され、南方に開口する横穴式石室古墳である。天井石は大石材三枚以上がみられ、石室内はほとんど土砂で埋没している。
 円墳は推定約一八m、石室は推定約七mとみられ、石室主軸は南北方向である。副葬品については全く不明である。
諏訪市『諏訪市史』〔諏訪市の古墳〕

 古墳としては具体的な説明を得ることができましたが、当然ながら“学術的”には神塚と藤島大明神との関連は不明のままです。

 松澤義章さんが、湖に突き出た土地も「島」として、上諏訪の清水町に藤島社を設定したのは注目に値します。この説を支持すれば、守屋山麓(諏訪大社上社周辺)で諏訪明神が洩矢神に勝利して投げた藤枝が「諏訪湖の対岸であるこの地まで届いた」となり、諏訪明神の雄叫(おたけ)びと歓喜の大きさが知れるし、この話の雄大さも伝わってきます。

もう一つの藤島社 25.3.21

神塚 諏訪市教育委員会『諏訪高島城』の折込地図に、明治元年編纂の『慶応四年信濃国高島城下町絵図』があります。印刷の解像度が高いので清水町の辺りをルーペで拡大すると、「島」の異体字を使った「藤嶌社」が現れました。
 改めてその周辺を眺めると、中央部にあるハシゴ状のものが石橋とわかり、それに繋がる太線が用水路となりました。つまり、甲州街道に沿って連なる人家と用水路の間に藤島社があったことになります。

 しかし、松澤義章さんは「二十歳頃はあったが、皆町屋となった」と書いていますから、絵図に藤島社の鳥居と社殿が描いてあっても、実情は周囲の民家に圧迫されて廃社同然の状態であった可能性があります。いずれにしても、彼の記憶にある「藤島大明神の宮(社域)、此町の両側の町並みにありて」が確認できました。

藤島社跡 次に、国土交通省『国土画像情報』から、昭和23年撮影の航空写真をダウンロードしました。不鮮明ですが、諏訪税務署その他の大型の施設が建つ前なので、参考になると思ったからです。
 家並みや判別できる線を頼りに水路を描き込んでみたのが、この写真です。しかし、『城中城下の図』にある、右手の神塚から国道に合流する道と、藤島社への道は確認できません。すでに消滅していた可能性があります。

藤島社跡を探す 28.6.16

 機は熟した、と期待を持って現地踏査としました。

神塚
税務署の駐車場から眺めた「藤島社推定地の家並み」

 しかし、推定地と考えた住宅ですが、現地で目にしても覗き込むことはできず、横目で通り過ぎるしかありません。また、駐車場や田圃の畦も私有地ですから、これだけ人家があると、おおっぴらには歩けません。踏査の限界を感じ、この辺りでは最古と思える旧家へ飛び込み調査を敢行しました。
 当主から得た話です。

・(私が言う)藤島社は、知らない。

・「(高尾穂見神社と境内が同じ)藤島神社は土砂崩れで流された」と聞いているが、いつのことかはわからない。

 結局は、何もつかめずに踏査は終わりとなりました。

藤島社跡を探す P2 29.10.31


 国道に平行して二列に延びる家並みですが、「断層崖を三段に削って道と宅地を造った」と書いてみても、見る度・歩く度に不思議に思ってしまいます。
 今日の踏査は久しぶりとあって、手前左の田圃は住宅分譲地として造成されており、正面民家の擁壁下にあった水路跡()は舗装道路の下になっていました。

 今回は、上写真の道を国道側に重点を置いて歩きました。すると、肩幅だけという崩れかけた石段があることに気が付きました。丁度中間部に当たりますから、私道ではなく、公道が残ったものと考えました。

 その足で国道に向かい、入口となる場所(←)を確認しました。その道と“対”になる山手へ続く道(→)を、国道を挟んだ形で撮ったのがこの写真です。
 右の道は地図にもあるので歩いたことがあり、途中で右折すると高尾穂見神社・藤島神社に突き当たります。また、両道は『高島城下町絵図』にある左・右の道と距離的にも合います。

これが、藤島社跡推定地

 「跡」の「推定地」にこれだけの情熱(執念)を傾ける人がいることを不思議に思うかもしれませんが、私もこれだけ深入りするとは思ってもいませんでした。最後に、推定できる事跡を総合的に判断して、藤島社推定地を1としてマップ上に据えて脱稿としました。


現存した道消滅した道

藤島社は「高尾穂見神社・藤島神社」として現存か 29.11.2


東京美術『復刻甲州道中分間延絵図』(部分)

 『甲州道中分間延絵図』に、「字(あざ)角間町」とある石橋があります。『高島城下町絵図』では「橋」で、Googleマップでは「清水1・2丁目」の交差点に相当します。その脇に鳥居が描かれており、拡大したら「稲荷」が読めました。
 現地にはその欠片(かけら)もありませんから、その存在は不明としてきました。ところが、近くにある高尾穂見神社の祭神を「もしや」と調べると「保食神(うけもちのかみ)」でした。それは稲荷神と同体ですから、移転して高尾穂見神社と改称した可能性が出てきました。そうなると、藤島社も「藤島神社」として移転した可能性があります。
 実は、その両社の由緒には、他人ごとのような“本社のこと”しか書いてないことに疑問を持っていました。その解消策となるのが、「藤島社(及び稲荷社)の流失」です。この辺一帯が土石流で流された際に社伝記などが失われ、神社の創建由来が不明になったとすればうまく符合します。ただし、あくまで私の辻褄合わせなので、追記として紹介するのみにしました。

土砂災害はあったのか 29.11.4

 交差点「清水町1・2丁目」の一画を、ストリートビューで小刻みに止まりながら確認すると、駐車場の奥に石造物のような黒い物体があります。「これが稲荷社跡ではないか」と大いに気になり、興味の向くまま現地で確認することになりました。
 駐車場の所有者がわかれば許可を得ますが、見た目では隣のふとん店ではないようです。意を決して立ち入り、手早く一枚だけ撮って戻りました。
 しかし、この写真では坪庭としか写っていません。

 次は、かつては更地・今は広い駐車場を挟んで、こちらは望遠なので心ゆくまで撮りました。
 その一枚がこれです。当初は「稲荷社の古宮を発見」と興奮しましたが、よく見ると、屋根は石祠ですが身舎は石臼二枚です。さらに、五輪塔も灯籠の宝珠と笠・藍塔屋根の組み合わせです。また、これには写っていませんが、石垣の右下には、こちらは完形という宝篋印塔がありました。

 「拾い集めのような神仏習合の石造物は一体何!?」との疑問は、かつて大規模な土石流があったことを思い浮かばせました。そこで、サイト『諏訪市』の〔土砂災害警戒区域等の指定について(地すべり)〕を閲覧すると、秋葉神社の上部「榊・清水2」が土砂災害警戒区域です。また、土砂災害特別警戒区域は国道から300m下方まで広がっています。
 これがリンクして『高島城下町絵図』で確認すると、秋葉神社の鳥居前に、文字がつぶれて読めない「○水寺」があります。現在は存在しないので、土砂で流されて廃寺になったのでしょう。その境内にあったものがここまで流されたと考えても、何ら矛盾しません。
 これで、「藤島神社は土砂崩れで流された」との話は、(藤島神社が鎮座する現在地からではなく)『高島城下町絵図』にある藤島社が流され、藤島神社として現在地へ移転再興した可能性が極めて高くなりました。しかし、これも推察ですから、追記の一つして終わらせました。


‖関連 サイト内‖ 由緒書が不可解な「高尾穂見神社・藤島神社」