諏訪湖の西側に連なる山並みを、諏訪の人は「西山」と呼んでいます。その山裾を鉢巻きをするが如く縫っている中央自動車道と、これも通称の「西街道(県道16号)」に挟まれた地域には、縄文時代の遺跡が多くあります。古墳も散在していますから、古くから開けた土地であることがわかります。
今も残っている古墳の一つに、山姥(やごんば)塚があります。名前からして何か恐ろしげな伝承がありそうですが、今わかっているのは「古墳」ということだけです。その古代のお墓も、今となっては、民家の庭先に乱雑に積んだ大石の小山といった景観になっています。
その脇を、上写真では左の道を諏訪湖側に下ると、右手に神社が現れます。
山姥塚はネットでも紹介されていますから、その趣味のある人は、標柱のある古墳の前に立ち止まったこともあるかと思います。しかし、偶然であっても、この小さな神社の前に立つことはないでしょう。私は、ここへ来るという“強い意志”を持ったために、この鳥居を正面にすることができました。
注連縄の間を透かすと、中央の祠に、巨大な石棒が据えてあるのが目に入りました。これを「石棒」としていいのか迷うところですが、屹立したそれは、向拝柱の代わりに屋根をしっかりと支えています。
観察すると、身舎(もや)の前部が欠けています。石棒を無理矢理組み入れるために祠の前部を削り取ったのでしょうか。何とも異端な眺めです。しかし、凝視し続けた筋肉が弛むと、たまたま掘り出した石棒風の石を据えただけとも見えてきました。
たまたま立ち会ってくれた男性は「社名・祭神ともわからない」と言いますから、いかにミシャグジ風であっても、御社宮司社と確定するには至りませんでした。
この特異な風貌をした祠の左右には、「右が八幡社で左が稲荷社」と教えられた木祠があります。トタン葺きのよく見られる造りですが、半開きの扉から御神体の「石」が覗けます。さっそくズームを大にして撮り、「今日は収穫があった」と、次の目的地である千鹿頭神社へ向かいました。
現地では「石」としか認識しませんでした。ところが、自宅で眺めると…。
八幡社は、「石棒のように見える」と言うより、祭祀者が「石棒として祀った」ことがありありと窺えます。一方の稲荷社は「そうでもない石」ですが、右の石棒の片割れのようにも見えます。このように、石棒を祀ってあっても、御社宮司社ではないという現実を目の当たりにすることになりました。
石を神体にするのは一般的ですが、ここは縄文王国であった諏訪の地です。ここに住む諏訪人は、祭神の“人格”を否定してまで御柱を建ててしまいますから、同じノリで「石の神体なら石棒に限る」と、出土品もしくは似たような石を納めても不思議ではありません。案外、「神体は石棒」というかたくなな風潮は、これが実体でしょうか。ただ、余所者である「こだわり(生真面目)人間」の私は、「どうして?」と戸惑ってしまいます。