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寿命稲荷神社と「とび石」 岡谷市湊 20.4.1

 風格のある「右・西街道」の石碑を見て思わず駆け寄りました。残念ながら「平成」生まれでしたが、傍らに「花岡城址入口」の標識があります。かなりの上り坂ですが、“筋力アップ”にはもってこいとばかりその先を目指しました。

寿命稲荷神社

寿命稲荷神社

 左に、凹地を挟んで尾根が一つ諏訪湖に向かって延びています。その背には赤い鳥居が連なっており、その先の、これ以上は転げ落ちるという突端に小屋状の社殿があります。お稲荷さんでしょう。タイミングよく、というより散策者の目線でその場所に決めたと思われる「いけいけ山っ湖事業委員」が設置した案内板がありました。

正一位寿命稲荷大明神
 道向こうに見えるこのお宮は農業の神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祭り、花岡城址の北西部にのびる丘陵の先端に祠があります。この丘陵は三伏山と呼ばれ、江戸時代の諏訪藩の地図に「とび石」と記されている大石があり、寿命稲荷は「とび石」の上に鎮座しています。
 戦国時代には武田氏の砦となったりしましたが、その後社殿を再建し遠近の信者を集めました。これとは別に天保十二年(1841)に山岡徳之丞が伏見稲荷を勧請して天竜川端の自分の屋敷に祭り、人々はこれを徳之丞稲荷と称していましたが、大正年間に寿命稲荷と合祀して現在に至っています。大正十一年に天竜川端からの石段の拡幅工事が行われ左右の石柱には寄進した製糸家の名前が刻まれています。
 現在は湊8、9町内の氏神として信仰を集め、毎年の例祭および7年ごとの御柱祭も両町内一同で奉仕しています。

寿命稲荷 これを読んで、「御柱が見える風景」にはピッタリと、花岡さんからお稲荷さんへ乗り換えることにしました。
 それでも、「参道入口はどこだ」と探せば、花岡城址から向かうことになりましたが…。

寿命稲荷
御柱

 境内に立てば、中央自動車道岡谷ジャンクションの超高架橋が恰好の背景になります。しかし、それでは「一之御柱」が入りません。代役を「二之御柱」にお願いしたのですが、今度は従者のような外灯が…。「まー、これはこれで面白いんじゃないか」と撮ったのが、この「御柱がある諏訪のお稲荷さん」です。

寿命稲荷「とび石」 「本殿はとび石の上」とありましたから、さっそく覆屋の中をのぞきました。まず目に付いたのが、賽銭箱の上に置かれた稲荷寿司用の油揚げ2パックと清酒の1合ビンです。その向こうに巾2m以上の大石があり、確かにその上に“乗って”います。前は賽銭箱で後方が本殿の其台に隠れているので、「これがとび石だ」と全景を紹介することができません。

 前もって拝礼し「ホームページで使いたい」と断りを入れましたが、やはり眷属のキツネ様が気になります。当然ながら油揚げの手持ちはありませんから“餌付け”をすることができません。そのため、カットして「とび石」だけを紹介するのは止め、“オールフォックス”登場としました。いつもは「祟り」とか「御利益」は全く考えませんが、お稲荷さん(の眷属)だけはちょっと引いてしまいます。

「とび石」

 「諏訪湖の釜口・そこを見下ろす尾根・その突端の大石」と目を閉じれば、一気に縄文時代まで飛んでしまいます。そうなると、古代の磐座としての「とび石」を想像してしまいます。

寿命稲荷の「とび石」 諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』の〔花岡村・小坂村〕に、「とび石」が載っていました。左にある「三王権現」のように鳥居が描いてないので、この時代では稲荷神社は存在していなかった可能性があります。

 花岡区誌編集委員会『花岡区誌』〔第六節 宗教〕に、[正一位寿命稲荷大明神]がありました。「どこかで読んだことがある」ので不思議に思っていたら、前出の案内板が、これを書き写したものとわかりました。

…この石はおそらく原始時代から信仰の対象となっていたものであろう。当社の所蔵する由来記は次のように記している。
 ここは昔、三伏山と称した。ここい倉稲魂命が奉祀された年代は不詳であるが、昔から多数の信者が参集した。然るに弘治年間(1555〜1558)武田氏がここに砦を築いたので城郭の中にかこまれ庶民は近よることができなくなった。守将(しゅしょう※砦を守る武将)は本社を篤く信仰し出陣には必ず祈願をこめた。武田氏滅亡後は神社も荒廃したが、いつのころからか社殿が再建され数々の霊験が現われ遠近の信者が集まった。
 この社とは別に天保十二年(1841)山岡徳之丞が伏見稲荷を勧請して天竜川端の自己屋敷内に奉祀し、信心怠らなかった。人々はこれを徳之丞稲荷と称した。しかるところ大正年間寿命稲荷に徳之丞稲荷を合祀して神徳に浴することになり、以来毎年八・九町内の氏子が五月十二日に例祭を行い、御柱年には十月に行うことにしている。

 これを読むと、「神社も荒廃した」が、『諏訪藩主手元絵図』が編纂された時代に重なります。

天竜川から寿命稲荷神社 24.10.11

天竜川から見る寿命稲荷 天竜川畔から寿命稲荷神社を仰ぐと、小尾根の先端にあるのがよくわかります。その左の小山が、『諏訪藩主手元絵図』にある「東山」に相当します。
 写真では中央になる県道から上る参道を使って再拝しようと思っていますが、未だ果たしていません。

寿命稲荷神社再拝 29.9.24

寿命稲荷「とび石」 「工夫すれば、とび石の全体像が撮れるのではないか」と、9年ぶりに御堂の前に立ちました。
 カメラを格子戸の上部から俯瞰させて何枚か撮りました。しかし、前が少しだけ露わになっただけで、ほとんど変わらない石姿でした。

寿命稲荷表参道 計画通り、帰りは表参道から降りてみました。配列が乱れた急な石段を慎重に下ってみると、県道脇の小公園に出ました。
 それこそ50年もこの幹線道路を利用していますが、ここが正規の入口とは知りませんでした。