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旧神戸村を歩く−神ノ木神社と大マラ様− 諏訪市四賀 27.12.20

 諏訪には、富士見町の御射山神戸と諏訪市四賀の神戸があります。二文字だけなら「こうべ」と読んでしまいますが、何れも「ごうど」で、江戸時代の村名がルーツです。たまたまなのか・必然的にということなのかはここでは書きませんが、双方とも旧甲州街道が縦貫しています。

神ノ木神社 27.11.4

 諏訪史談会『諏訪史蹟要項十二 諏訪市四賀篇』から抜粋しました。

神ノ木社

一、現況
神戸区北小路に在り。
 祭神 神ノ木(かみのき)
 社殿 間口三尺、奥行き四尺五寸
明治初年までは境内に橡榎(とち・えのき)の老樹ありて森を成せる由であるが、皆伐り去られ、橡の木が神木として残っていた。然るに此の橡の木も枯死して、昭和四年の秋に伐られ、その神の木の面目を保てるはない。
当社は原始信仰の遺跡として、其の当時を偲ぶべきものと考えられるのであるが、時代的の変遷を経たる現在は、神澤巻の祝神として奉祀されている。

二、ガウノ木ノ明神
祝詞段及び根元記(下)に神楽歌がある。

下桑原鎮守(中略)神戸ニ鎮守若宮サンソン・ガウノ木ノの明神、神々ニチヨノ御神楽マイラスル(後略)

中央道と御社宮司社 旧甲州街道を歩くと、神社の背後を目にすることになります。小祠ですから、わざわざ前に回り込んで参拝する人は皆無でしょう。
 今回はこの神社を紹介ということなので、私が代表して参拝し、鳥居の間から撮った正面の写真を用意しました。ただし、「現在は、神澤巻(かんざわまき)の祝神」とあるので、赤の他人では御利益を期待できません。


 道を一つ下り、かつての社域と思われる一帯を撮ってみました。石垣の高さから、かなりの傾斜地であることがわかります。

神ノ木神社
諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』

 『諏訪藩主手元絵図』から〔神戸村〕の一部です。左に「一リヅカ(一里塚)」があるように、この横道が甲州街道です。ここに「神ノ木」が大きく描かれていますが、あくまで絵図なので…。また、右の家が郷蔵ですから、この場所が神戸村の中心部であることがわかります。
 現在の状況を紹介すると、街道沿いに「神戸公民館」があり、道向かいには温泉があります。ただし、「ジモ専(地元専用)」なので、「ちょっと一浴」はできません。
 (神社サイトなので)忘れていました。温泉の上方には、諏訪頼重縁の「頼重院」がありました。

おうかみ屋敷

 神ノ木神社と重なるように下方に広がっているのが、おうかみ屋敷跡です。『諏訪史蹟要項 諏訪市四賀篇』から転載しました。

おふかみ屋敷

一、所在
神戸北小路にあり。上・中・下・倉の四屋敷より成り、面積は合計二段歩位である。(中略)

神ノ木神社遺跡

 神ノ木神社から、かつては低湿地であった市街地までを見下ろしました。その手前にかけてあるのがオオカミ(大神)屋敷跡ですが、今や遺跡と呼ぶようにその痕跡はまったくありません。
 この地には「神澤・神沢」姓の人が多く、おおかみ(大神)屋敷ともリンクしてしまいます。底知れぬ歴史を持っていそうな神戸ですが、『諏訪史蹟要項』で(中略)としたように、かなりディープな内容とわかったので「所在」のみ紹介しました。

大魔羅様

 『諏訪史蹟要項』の続きです。

二、大魔羅様
 或は御(おん)まら様とも云う。上屋敷の東の隅に在り、平石にて造れる祠の中に石棒を祀る。以前は五本ありし由なるが、今は三本現存して図の如くである。大は丈一尺八寸、中は一尺三寸、小は八寸あり、なかなか重い石である。

 出ました、大摩羅様が…。そこで、幕末に書かれた勝田九一郎正履著『洲羽事跡考』の登場です。

 神戸村大神の事
おう神のしるしは神戸村なる何某の屋敷うらに有り、陽石二基有りと此地にみづから到りて拝みしに、毛髪もたつようなるすごき處なりと是又安倍栗林いう、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第四巻』

 実は、ここに出る「陽石(石棒)」が気になっていました。それが、『諏訪史蹟要項』を読んだことで「大摩羅様」と重なりました。こうなると、「身の毛もよだつ石棒とは、いったいどんなものなのか」と現地で“拝観”したくなります。これが、前回に続いての「神戸村を歩く」きっかけとなりました。

平成の大マラ様

 どこに“展示”してあるのかもわからない「大マラ様」です。以下の登場人物に障りがありそうなので(すでにバレバレですが)◯◯と伏せた公民館の前に、これからどこへ行くのかまだ定まっていないような歩きをしているお年寄りがいます。おじいさんそのものという年令に「この人なら」と白羽の矢を立てたのですが、「大マラ・石棒」と説明してもまったく反応がありません。

石棒
諏訪史談会『諏訪史蹟要項諏訪四賀篇』

 民家の敷地内を遠慮がちに窺いながら線路まで下ってみましたが、見つかりません。モノがモノだけに、純粋な考古学的探求であっても、チャイムを鳴らしてまで尋ねる勇気はありません。一ブロックをくまなく探して再び公民館脇の道を下ると、先ほど紹介したおじいさんの後姿が…。
 黙って追い越すのも何なので「先ほどは…」と挨拶し、「見つからなかった」経過を報告しました。別れるタイミングがとれずに空いた間(ま)に、唐突に「これから夜這いに行く」と嬉しそうな声と顔が…。
 (人のことは言えませんが)剃り残しのヒゲが目立つ、いかにも“おじいさんおじいさん”した姿にその言葉は重なりません。どう反応したらよいか戸惑っていると、夜這いが通じなかったと見たのか、ボケットから生卵を一つ取り出し「未亡人・独り者」と関連用語を追加します。何とも生々しく映った精力剤を見て、「昼間から夜這いですか」とは言えずに、「それは楽しみなことで…」と見合って笑うしかありません。
 私は否定しますが、彼には、私が“好き者”と映ったのかもしれません。立ち止まったので「頑張って」と別れましたが、振り返ると向きを変えて路地に…。
 後で思ったのですが、「大マラ様」の話から“同好の士”と見て心を許したのかもしれません。もしかしたら、石のマラの代わりに、大マラ様が彼に乗り移って出現した…。

再び、大マラ様 27.11.11

 四賀村誌編纂委員会『諏訪四賀村誌』にある「オオカミ屋敷跡」を転載しました。

オオカミ屋敷遺跡
 在家屋敷遺跡の東南、北小路に位置し、同じような地形をしている。ここには上屋敷、中屋敷、下屋敷、倉屋敷と呼称されている場所があって、上屋敷と呼ぶ場所には石棒が五本祭ってあった。現在は三本だけになって国道二〇号沿いに移されている
 大は約五五cm、中は約四〇cm、小さい石棒は約二五cmの長さである。石棒は縄文時代中期に多く製作されているが、同時期の石棒のように観察される。しかしこの付近に、縄文中期の遺構、あるいは土器等の出土が知られていないため、縄文時代中期の祭祀場であるか、または後の時代に一つの信仰として集められたものか断定できない。

  ここに、大マラ様は「国道20号沿いに移された」とあります。一方で「個人宅に入っていると聞いています」と知らせてくれる人がありましたが、一応国道沿いを歩いてみました。結果は無駄足となりましたが、謎の石碑を見つけました。国道脇のアパートの敷地沿いにポツンと立ち、「休」とだけ彫られています。いったい何でしょうか。