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上御社宮司と下御社宮司 諏訪市諏訪 28.7.28

 このところ、ミシャグジ探しというか、「御社宮司を訪ねて」を実践しています。

御社宮司 『諏訪史 上巻』の付録『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』(以下『地図』)に、上・下の御社宮司が載っています。(小和田)八劔神社の直近に表示された両社は、凡例から「『祝詞段』所載のミシャクジ」ということになります。
 その『祝詞段』をひもとくと、確かに「下桑原鎮守・大矢小玉石・湯ノウ権現・上下ノ御社宮神・武津子ノ神…」と書かれています。ただし、中世という古い時代に加え、明治期には神社合併がありましたから、現在も“存続”しているとは限りません。

 次は『諏訪史 上巻』の本文で、関係するキーワードを探してみました。〔第七章 諏訪神社の古態〕から、その一部です。

大(小)県廻湛 詳細にみると下桑原宿湛は、上・下御社宮神(現諏訪市諏訪二丁目小和田)と、湯の脇の湯ノ権現・児玉石を廻湛する。
表11 大(小)県廻 順路推定として「下桑原宿湛木ノ下ミシャグジ・小和田ミシャグジ他」

 『諏訪史』の編纂者は、それぞれの鎮座地に「諏訪二丁目・木ノ下と小和田」を挙げています。それが『地図』に落とした上・下御社宮司ということになりますが、その出典というか根拠は書いていません。

 私には初見となる鎮座地ですから、八剱神社に近い下御社宮司の「鳥居」の下を凝視しました。「八劍神社の裏の道を…」と記憶にある道からたどると、…心当たりがあります。去年の11月に、更地になって見通しが利いた場所に小祠があるのを見ていたからです。巻の祝神か屋敷神という認識で終わっていましたが、それが下御社宮司に繋がる可能性が出てきました。

 一方の上御社宮司は、スーパー「アップルランド(現セブンイレブン)」の隣とわかりました。平成8年当時の地図ではわかりにくいので、GoogleMapに、その[鳥居]を貼り付けてみました。

 ここで、勘違いが生じる可能性があるので、少し説明を入れてみました。今取り上げている御社宮司は、中世での話です。幹線道路といえば「鎌倉街道」で、Mapにある「八劍神社」もまだ諏訪湖中の高島にあった時代です。この辺りも、直ぐ近くまで諏訪湖の低湿地帯が広がっていたと想像できますから、ここに御社宮司があったと言われても、今では想像もできない景観ということになります。

“ミシャグジ GO”

 しのぎやすい曇り日を選んだ7月25日に、ミシャグジ探しに出掛けました。スマホを持参しましたが、紙の地図の方が手っ取り早いので、一度も出番はありませんでした。

下御社宮司

小林御社宮司社跡? すでに家が建っていると覚悟していましたが、「ミシャグジが見える風景」は健在でした。「無断立ち入り禁止」ですが、工事関係者がいないのを確認して、忍び足でその前に立ちました。
 ところが、祠の前には、石棒ならぬ「伏見稲荷大社」の御札が置かれていました。落胆しながらも「何かミシャグジの痕跡が」と執拗に観察すると、台座に「濱」の一文字が見えました。
 結局、「濱さんちのお稲荷さん」とわかっただけでした。持参の地図を照合すると、同じブロック内ですが、やや離れていました。

上御社宮司

 こちらの場所は、セブンイレブンの駐車場と新しい民家の敷地でした。一応見渡してはみましたが、早々に諦めました。

御社宮司はどこに

 こんな現地踏査の結果ですから、戦国時代の混乱で廃絶したか、高島城とその城下町の町割りの際に移転したか、明治期の神社合併で八劍神社か手長神社に移転したと考えるしかありません。その一方で、この『地図』は信用できない(間違いではないか)との思いも募ってきます。“旧跡地”の場合は、正確な場所を示していない例があるからです。

小林御社宮司社跡?
榊町区管理「御頭御社宮司社」

 こうなると、現在は手長神社の境内社としてある“御頭”御社宮司社をここに担いでくるしかありません。
 今までは、「御頭」が付いていたので江戸時代以降の御社宮司社として距離を置いていました。しかし、上下の御社宮司が現地に存在していない今、それを「御頭御社宮司社」二社が引き継いだと考えたほうが自然です。

「上」と「下」

下桑原御頭御社宮司社
柳町区管理「御頭御社宮司社」

 再び『地図』に戻ります。ここでは「上・下」の御社宮司が超接近しています。初めは「?」と取りましたが、同じ『祝詞段』に「上原の郷にチカト・若宮・久須井十三所・上下御社宮神・矢ヶ崎鎮守…」とあったのを思い出しました。その、茅野市上原に鎮座する上・下の御社宮司社もかなり近い位置にあります。そのため、この疑問は考えなくてもいいことになりました。
 次は、何に対しての「上・下」かが不明です。これも、上原の例から、諏訪神社上社に近い方、すなわち、廻湛が先に行われる方を「上」としてよさそうです。ただし、その境が「上・下」の間としても、東西・南北のどちらに分けていいのかはわかりません。

手長神社の御頭御社宮司社が御社宮司なのか

 手長神社の境内社として移された御頭御社宮司社は、どこにあったのかは正確にはわからないそうです。『貞松院平面図』には「御射宮司御社」、『甲州道中分間延絵図』には同境内に「社宮司」と書いてあるのが知られていますが、それが御頭御社宮司社であるのかは断定できないそうです。
 こうなると、『地図』にある上下の御社宮司の鎮座地をここに比定した根拠が知りたくなります。しかし、何分にも『諏訪史』は分厚いので、この暑さでは通読して確認する気は起きません。

 今回は、中世のミシャグジは『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』の中だけで、私の前には姿を現してくれませんでした。