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柏尾社と治部山神 諏訪郡富士見町小六

 長野県神社庁の表記は「柏尾社」です。このページには「柏尾神宮・柏尾神社」などの呼称が含まれていますが、資料や時代による違いなのでそのままを載せています。

富士見町「小六」

柏尾神社  富士見町の住民ならともかく、柏尾社が鎮座するのが「小六(ころく)」と言っても通じそうにありません。そこで、アニメ『もののけ姫』に登場する「乙事主(おっことぬし)」の“語源”となった「旧乙事村の隣が旧小六新田村」としました。「小六石」の方で知られているかもしれませんが、結局は「富士見町にある」と言ったほうがわかりやすい…。

 中村久太郎著『近世中新田村』の第一ページに「諏訪と甲斐国境の考察」があります。ここに、抜き書きですが以下のように書いてあります。

 富士見町小六区柏尾神社は一名治部山之神と言い、同社境内に「仁平元(1151)年辛未年三月吉日逸見太郎光長立」又「文安二(1445)乙丑年八月」の石祠が祀られている。この石祠は即この時代のものではないにしても誰が何の理由で建て祀ったであろうか。

 「逸見太郎光長が祠を建立した」とあります。しかし、小六新田村の成立は江戸時代なので、筆者が言うように、それより450年以前の祠が鎮守社の境内にあるのは計算に合いません。それはともかく、古いものを見ることに大いなる喜びを感じる私としては、もう行くしかありません。

柏尾社参拝

 県道を挟んだこの一画には火の見櫓があり、「郷倉」も健在です。柏尾神社の横は公民館で、その前は「真立寺跡」ですから、ここが旧小六村の中心地であることがよくわかります。

柏尾神社 「愛宕山・秋葉山」と彫られた灯籠を左右に見て、小尾根の先端に見える御柱を目指します。二日前に「小宮祭」が行われたばかりなので、参道には御柱を曳行した跡が残っていました。
 白い肌もまぶしい御柱が壇上の社殿を囲んでいます。石段左に、富士見町指定有形文化財「小六柏尾社社殿」の案内板がありました。

 柏尾社は寛永十六年(1639)に開発がなった小六新田の氏神として創立され、大山祇神を祀る。社殿は天保八年(1837)の建立になり、棟梁は彫物大工白鳥弥四郎である。神社はその後の安政三年(1856)に柏尾山の社号を受け、明治5年に村社となった。(後略)

 白鳥弥四郎は、私の知識では「北斗神社本殿」が真っ先に浮かびます。ここで彼が造った社殿を見られるとは思ってもいませんでした。
 拝殿を前にすると、社殿額が「柏尾山神宮」です。拝礼の後で拝殿の奥を透かすと「柏尾社」の扁額が掛かっています。参道の社号標と鳥居額が「柏尾社」で、案内板(富士見町教委)の呼称も「柏尾社」ですが「柏尾山の社号を受け」と書いてあります。

柏尾神社本殿
富士見町指定有形文化財「柏尾社本殿」

 そのため、文化財の本殿より名前の不統一に興味が移ってしまいました。小宮祭の後片付けで境内に居合わせた男性に話しかけてみましたが、この件の問いには無言になってしまいました。“外”の世界では、社号と神社名を厳然に区別しているようです。

「仁平・文安」の石祠

文安二年 やはり「今日は古祠」です。彫刻に腕をふるった白鳥さんには申し訳ないのですが、本殿の彫刻鑑賞もそこそこに金網の前から離れました。
 拝殿の右手に石祠が四棟並んでいるので、順に身舎(もや)の中を覗いてみました。左端の祠には、確かに「文安二乙丑年・八月吉日」と彫られています。しかし、釘などで引っかいたような線刻の書体にも似ていますから、私も「史家は異論を称えている」ことに同意できました。そうは言っても自分が第一発見者なら、この場で「日本最古」と大騒ぎしたのは間違いありません。

治部山社 代わって、本殿後方に並ぶ石祠三棟に注目しました。屋根の形状から両側の祠がかなり古そうです。まず右側を観察しますが、身舎の前面に彫られている文字はどう譲歩しても「元禄」としか読めません。消去法では左の祠が「仁平」に該当しますが、…無銘でした。

治部山神

 中央の新しい様式の祠には、向拝柱に社殿額一体型の貫が差し込まれています。私の見立てでは「他の部材とは石質(色)が異なる。風化も見られず向拝柱とのガタも大きいので、後世に補完された可能性がある」と不利な条件ですが、ここに「治部山神」と彫ってあります。

治部山社 冒頭に紹介した中村久太郎さんは「柏尾神社の別名は治部山之神」と書いていますから、「この石祠は柏尾神社の旧本殿ではないか」と、今はこの祠に興味が移ってしまいました。しかし、台石を含めても寄進者や製造年月日の銘は見つかりません。「別名・治部山之神」が事実とすれば、白鳥弥四郎に依頼した社殿が完成した時に引退したことになります。
 これ以上の進展は望めないので、資料を当たり直してから再訪すると決め、今日はこれまでとしました。帰りに県道から振り返ると、参道脇に、社号に由来した柏の幼木が植えられていたことに気がつきました。

『小六の歴史』

 茅野市の図書館には『富士見町史』と『富士見村誌』しかありません。数行程度の記述なので、富士見町図書館で探すことにしました。さすがに地元です。小六区刊『小六の歴史』を見つけました。「村の信仰の行事」の年表があります。

明治二十八年(1895)
 安政三年京都白河御所神祇官に出願した、柏尾山神宮の名称と並びに額字御染筆を賜る。

 (※) 柏尾社の祭神は大山祇命であり、この神は伊弉諾尊と伊弉再尊の子供である。安政年代に、氏子総代が京都白川御殿御役に神号許可を願い出たとき、御所役人より「神社名について腹案があるか」と問われ「腹案なし」と答えると、役人再び「神社の鎮座地周辺に特徴あるか」で、総代は「神社は尾根の先端に祀り、お宮の森に柏の大木が繁る」と。これを聞いた役人が「柏尾神宮」と神号を授与したと云う。
 神祇伯(じんぎのかみ)は(神祇官長官)資訓王謹書の柏尾山神と書いた掛軸が授与された白川御殿御役所は神祇官長官である。

 諏訪以外では知りませんが、「柏尾」の名前が極めて珍しいのも、こんな“単純な理由”とわかりました。梅の木なら「梅尾神社」になっていたかもしれません。この本で「額字」と「御染筆(せんぴつ)」を知り知識を増やしましたが、肝心な「治部山之神」のことは書かれていません。

治部山神の祠は、柏尾社の旧本殿

 一週間後。再び「治部山神」の“正体”を調べるために祠の前に立ち、何か手がかりがないかと彫刻を凝視しました。身舎の蟇股は「花菱」で屋根の鬼板は「三巴」ですが、これはよくある汎用の装飾としました。

神紋「三つ柏」

武田菱

 一回りして正面から見つめると、大棟の左右には「武田菱(甲斐武田の家紋)」が彫られています。
 「為せば成る」ではありませんが“視れば見える”で、武田菱に挟まれたその中央に「何か」が浮き出ているのに気がつきました。しかし、目を細めても具体的な形は浮かんできません。ボケ始めた石面をリセットするために、最奥の木に視度を合わせ直してから再び凝視すると、その中心にmaruらしきものが確認できました。それを基準に、上部にわずかに浮き出ている[モノ]を参考にして全体のイメージを膨らませると、最も近いのは「三つ柏」です。

三つ柏 今度は三つ柏として見ると、ますます“それらしく”見えてきました。これは治部山神の神慮ではなく、拝殿前にあった賽銭箱と灯籠の神紋「三つ柏」が残留意識としてあったためでしょう。以上の状況から、左写真の「賽銭箱の紋が三つ柏」という後押しもあるので、「祠の神紋は三つ柏」と断定しました。

武田菱

 隣県である山梨の諏訪神社巡りをすると、大棟に武田氏の家紋「武田菱」があるのをよく見かけます。これは神社の神紋ではなく「武田氏縁(ゆかり)」という意味ですから、多くが「武田菱―立穀(立梶)―武田菱」の配列を掲げています。
 小六新田の産土社である治部山神の石祠も「武田菱―三つ柏―武田菱」ですから、この祠は「山梨県に縁」があった人が造営した可能性が出てきます。また、この辺りが甲斐国(山梨)から信濃国(諏訪)になったのは戦国時代ですから、小六新田草分の祖先が甲州人であったことは十分考えられます。

柏尾社と治部山神

 これまでに書き加えてきたものを総合すると、「天保8年に完成した現在の本殿に祭神が遷座したので、旧本殿(石祠)は空屋になった」という流れが見えてきました。しかし、新しい本殿が造られた20年後に、なぜ神号を授かるために京都まで行ったのかが説明できません。

柏尾山神宮 新社殿完成以降に、何らかのトラブルがあったと考えてみました。社殿の造営に莫大な負担をした“一般村民”と新田を開発した草分けの子孫との間に、甲州との繋がりが見える「治部山神と武田菱」を巡って一悶着があったことが考えられます。結局は、数に優る信州(諏訪)の論理が“大昔の功労者”の子孫に勝り、「柏尾」と改称したことが想像できます。
 その結果、この石祠に縁があった人々が、甲州との繋がりを子孫に伝えるために、旧本殿を再び治部山神として祀ることにしたのでしょう。

「治部」について

 中村久太郎さんは、著書で以下のように書いています。

「治部は律令の官名である故に、律令以来この付近は朝廷の牧場が置かれた其の一部であろう。この地に治部何々と称する牧官が駐在したと考えたい。

 『高原の自然と文化(13号)』に、内藤弌(まこと)さんが寄稿した『古い氏神様の謎』が載っています。ここに、明治34年作成の「柏尾社御由緒調査書」を紹介しているので、関係ある部分だけを以下に抜粋しました。

一、古老の伝説
 この地元甲斐国北部の豪族逸見(へみ)氏の支配に属せしが、逸見氏治民の為に勤めその族逸見治部、民をして開墾を奨励せしむ、治部この処に止まる十数年、(中略) 後治部この地を去りしも住民その徳を仰ぎ、この社を治部山神社と称するに至れり、

 「伝説」なので真偽は別としても、逸見「治部」が出てきます。

仁平の石祠 24.9.4

仁平の祠 前書の『古い氏神様の謎』に「仁平祠の社」があり、元号発見の経緯(いきさつ)が書いてありました。さらに、銘刻文字を「仁平元辛未季 三月吉日 逸見太郎光長 立」と紹介しています。ところが、私が「無銘でした」と断定した祠がそれだったので、責任上、改めて確認に行く羽目になりました。
 「これから写真を撮らせてもらいます」と、祠の“主”に断ってから鏡胴を近づけました。何枚か撮った後で「ありがとうございました」と礼を言ったものの、柏尾社の急な石段を下りるときには、見えない力で背中を押されるのではないかとの恐怖心に取り憑かれました。足使いを慎重にして降り、自宅までは安全運転に徹しました。

仁平元年 カメラの小さな液晶画面では「何かが写っている」としかわかりませんが、自宅で拡大すると…。…拡大してもよく読めません。結局、内藤弌さんの読みを採用しました。
 何枚かを凝視すると、縦に削痕が何本もあり「壁面が、文字を彫ることを前提にしていない荒削りのまま」ということがわかります。書体も「丸ゴシック」のように線幅が均一です。
 同書に「村の歴史を古い時代に見せかけようとして、わざと古い年代を彫り付けた例があると云う」とあるように、後代に彫り加えたとしました。しかし、見ての通り「何もこんな彫り難い場所を選ばなくても」という疑問は残ります。もしかしたら、これだけの技術があることを後世の発見者に示したかったのかもしれません。