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千野式部屋敷と鎮守北星大神祇碑 茅野市西茅野 28.11.24

鎮守北星大神碑 以前『有賀千鹿頭神社』を紹介した際に、千野廣著『千野(茅野)氏概説』を参照しました。その中で、西茅野に「鎮守北星大神」碑があることを知りました。「北星」とくれば「北極星」ですから、「千野氏は北斗七星を信仰していたのか。これはぜひ見学しなければ」という流れになります。しかし、果たせぬまま、振り返れば今年で9年を経過していました。

 同書の〔武族千野(茅野)氏の発祥〕から、[古屋敷または式部屋敷(第三居館)]の一部を転載しました。

 古屋敷の一角は、現在、五味■■氏の屋敷となっているが、その北部に鎮守北星大神と刻んだ石碑が立ち、同家によって保存されている。
 この石碑は、もと千野氏によって、同屋敷北斗の守護神が祀られていた当時のものである。
 これも前記のごとく、諏訪氏が武州奈良梨の地に移封される際、千野氏が諏訪氏とともにその地に置き去ったものである。
差し障りがありそうなので、名前は伏せました。

 諏訪を代表する古族・千野氏に北斗信仰があったとすれば、北方の守護神「玄武」から、「亀石」や家紋の「亀甲」が繋がります。しかし、その場所の手掛かりは「五味■■氏の家」だけです。「寒風に震える前に」というタイムリミットを付けて、その石碑と対面することにしました。

 出掛けに思いついて、電話帳で「五味■■」を調べました。電話帳には番地表示があり、カーナビには電話番号検索機能があるからです。しかし、昭和44年の本に載るその名はなく、すでに代替わりしたと判断しました。

 「現地で訊いた方が早い」と、集落の中を当てずっぽうに歩きました。ようやく玄関先にいる男性を見つけ、本を指し示しながら「五味■■」さんの家を尋ねました。すぐに反応があり、「道を下った突き当たりの家で、今は息子さんが住んでいる」と言います。しかし、その言葉通りにならないのが世の常です。紆余曲折の果てに、集落のはずれでその先は田圃という一軒になりました。そこは「下りきった」場所ですから、まだ「下った」が有効ですが…。
 「木戸がある」とも言っていたので、その木戸から窺うと、男性が物置の修理しています。作業のまっ最中ですが、私の都合もあります。手を休めた瞬間を見計らって声を掛けると、その人が五味家の当主でした。
 「公民館(の講座)で見学に来たのは何回かあったが、個人で来たのは初めてだ」と言いながら、気安く案内してくれました。

鎮守北星大神祇碑 碑は日陰の逆光という場所にありました。目測は60cmと、意外に小さなものでした。本の写真を見ているうちに、頭の中でドンドン成長していたようです。画質を心配しながら撮り終えると、次は碑文を自分の目に焼き付けました。
 個人宅なので長居はできません。礼を言ってから、「何か謂われを聞いていますか」と問うと、「何もわからない。ただ、父はこの碑をとても大事にしていた」と返ってきました。

式部屋敷跡
「鎮守北星大神祇」碑

 帰りに、かつて千野氏の居館が建っていた可能性がある場所を、五味家を中心に据えて撮ってみました。

「鎮守北星大神祇」

 この写真は、モノクロに変換しコントラストを強めるなど画像処理をしてあります。

鎮守北星大神祇 文字の彫りは、上部がかなり摩滅しています。本で読んでいたので、迷うことなく「鎮守北星」と確認できましたが…。ここで、一番下に「祇」があることに気が付きました。持参した昭和44年当時の写真を見ると、下部が草に埋もれています。著者は一文字読み落としたようです。
 左右と背後を確認しましたが、加工痕がまったく無いので製造年は不明です。また、摩滅の状況から、長らく「碑の半分が土中に埋まっていた」と考えました。五味家の先祖が掘り起こして祀り、御柱を立てて大事に伝えてきたと想像してみました。
 しかし、「祇」を見たばかりに、「大神祇」をどう読むのか・どう解釈していいのかという悩みが浮上しました。下諏訪町の青塚に建つ宝亀四年の碑は「大塚大明神 位」ですから、「北星大神 祇」と読めば、何かの「位階」とも思えます。これで、この碑の格式の高さとより古さが…。

千野式部・式部屋敷・字(あざ)式部屋敷

 五味家が特定できたので、改めてその場所を地図で確認してみました。“もしや”と思っていたのですが、そのことで、最近知った大久保善立著『茅野村史話』に載る古絵図二枚に載る名称と重なりました。

古絵図
『慶長姿茅野村』スペース『天正以前姿』

 ここに、「千野式部」と「式部屋敷」があります。近くに「亀石社(千野川神社)」もありますから、かつて千野氏が館を構えた地の一つである「千野式部屋敷」であることがわかります。

字「式部屋敷」 平成2年発刊の茅野市教育委員会『茅野市字名地図』には、五味家の宅地に「式部屋敷」が字(あざな)として残っています。かなり狭い区画を指していますから、屋敷跡そのものと考えられます。
 現地に立ってわかったことですが、この近くに亀石があったとすれば、洪水で流された話も無理なく受け入れることができます。もしかしたら、屋敷神の神体である亀石の脇に、この碑が立っていた可能性もあります。

 『GoogleMap』に、字界を貼ってみました。右上隅が宮川ですから、衛星写真では「式部屋敷」が山麓直下の平地にあることがよくわかります。
 ところで、千野氏はなぜ、宮川の洪水常習地であるこの地を選んで住んだのでしょうか。その疑問も、「まだ開発が始まったばかりの未知の土地であった」と考えれば説明がつきます。

 幾つかある千野氏の系図を見ると、「式部」が4人います。「西茅野の式部さん」が誰なのかは、現在調査中です。