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「こけい様」 茅野市安国寺 29.8.25

■ 文献によって、「御佐口・御左口」と表記のゆらぎがあります。

 安国寺区誌作成委員会『安国寺区誌』から、〔第二章 安国寺村の遺跡遺物〕[お宮と石造物]を転載しました。

こけい様 現在は小飼氏の祝神とされているが、別名「おおまらさま」とも呼び石棒が祀られている。この附近からは縄文時代中期の住居跡や土器、石器が発見されており、安国寺区公民館に所蔵する大がめもここから出土した。
 江戸時代の旧諏訪藩主の手元絵図であった「一村限村地図」には「小飼大木」や「御左口神」などがこの辺にあったように記されている。
諏訪藩主手元絵図
諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』〔安国寺村(部分)〕

 以前より、『諏訪藩主手元絵図』に載る「御佐口神()」と、『祝詞段・根本記』に出る「小飼に七御社宮神」が気になっていました。それが、ここで『こけい様』と結びついたことで、現地探査となりました。
 しかし、連日の暑さに無期待機となりました。ところが、今日は曇り時々雨」の予報です。外に出て「これなら許容範囲」と、御柱屋敷から、絵図では右下からの道()を歩いてみました。

小飼神社(こけい・こけえ様)

こけいさま 傘を差したり閉じたりする中で諦め掛けた頃、道脇の案内板に気が付きました。お馴染みの安国寺史談会が設置したものです。本文は薄くて判別できませんが「こけえさま」が読み取れました。


小飼神社 路地とはとても言えない、そこへ入る背中を見られたら不審者と通報されかねない狭い隙間を進みます。物置様の建物の裏に、それと同じ幅で不思議な空間がありました。
 額束に「小飼神社」と読めたので、片足を隣家に不法侵入させながら、何とか鳥居と祠をカメラに収めました。

こけい様 神宮寺石の祠は無銘でした。左右に並べられた石は、『区誌』の写真では石棒に見えましたが、すべてが卵形でした。石棒の周囲ですから“丸石”と思いますが、私の知識では断定はできません


こけい様の石棒 最後になった、皆さまお待ちかねの“石棒の御開帳”です。
 「これぞミシャグジの石棒」という形ですが、これがミシャグジを祀る祠の中にあるというのが“ミソ”です。また、江戸時代の絵図に載っていることも存在価値を高めています。平成の世ですが、今日、ミシャグジの御神体に対面できたことをミシャグジの神に感謝しました。

「こけいさま」

 同書から[まきと祝神]を転載しました。

小飼神社(小飼氏) この神社は小飼神社(大国主命・豊受媛尊)の合祀と、小飼神社(豊受媛尊・大国主命)の合祀二社がある。苗字のいわれは諸説あるが、講の古文書によれば、「雄畧(略)帝御宇鳥官鳥養部(とりかいべ)失官(しっかん)アリテ之ヲ幽閉ス、信濃国直丁(じきちょう)、武蔵国直丁侍宿(宿侍?)ヲ命セラレテ、此役ヲ奉ス、当家ノ遠祖其際直丁二加リ鳥養部ノ男女児数人亦(また)別室二幽セラルルモノヲ侍宿ノ其ノ任ヲ尽セシヨリ初メテ児養ノ姓ヲ玉フ…中略」
 社地の辺を往古より小飼と云い、安国寺院ができる前は、小飼村と呼ばれていたし、伊那郡へ通ずる峠を小飼峠又は小海峠と呼び、諏訪と伊那を結ぶ古い重要な交通路たった。子飼・古海・小貝など異なった書き方があった。小海と小飼は古くは同族と思えるが長い年月のたつうちに書き方が分かれたことだろう。明治二十年代に七戸が小飼姓の訂正願を出して改姓し、小海となっている。講員は十四戸である。

 これを読んで、小飼神社が他に一社あることに気が付きました。『安国寺区誌』を再確認すると、同じ形状の石棒が祠の前に置かれた写真があり「こけいさま」と説明しています。「こけい様」と表記が違うのは、上・下の二社が存在していることの現れでしょう。日を改めて再探索することにしました。

 茅野市教育委員会『出頭(いでがしら)遺跡』内に、小飼通(どおり)遺跡の記述がありました。

 1958年(昭和33年)4月、小飼通遺跡でジャガイモを蒔きつけるとき出土した土器は縄文時代後期から晩期のものが大勢を占めていた。この時、同遺跡内から加會利E式末葉の底部のみ欠損した深鉢(口径33cm・器高60cm)が出土して、今でも安国寺公民館で区民の財産として大切に保管されている。
 翌年5月、遺跡内にある「小飼様(こけいさま)」の石垣を積み直した際、石棒や凹石が祠のあった周辺から多量に出土、小飼マキの人々によりほとんどの出上した遺物は祠の下へ埋められて、有頭石棒が一本だけ祠内に安置されている。

こけい様の石棒 ここでは「一本だけ」と書いています。一体、どうなっているのでしょう。発掘調査報告書に載らない何かを想像してしまいます。
 左に、大きさがわかるので、同書の図版5-2「小飼神社の石棒」を転載しました。