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駒形城址の石祠 茅野市西茅野

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に「金石銘文」の章があります。ここに、石祠では一番古い「駒形石祠 宮川村西茅野 駒形城址立在」が載っていました。

永禄四辛酉
 五月吉日立之

 「永禄四年」を調べると1561年なので、“公の文献”に見られる最古の石祠「御小屋明神社」より23年さかのぼることになります。こうなると、歴史に関する限り「古い物をより尊ぶ」私はウズウズしてきます。
 現在でも「西茅野」と呼ばれる地域をネット地図で拡大すると、集落の中に「駒形神社」が表示しました。この神社と駒形城址にあるという祠の関連はわかりませんが、諏訪では珍しい「駒形」が同じ地域にあることに注目しました。茅野市『茅野市史 中巻』「中世の城館跡」からの抜粋です。

茅野城(駒形城)
 茅野城は現在の西茅野の集落の背後、標高八四〇m、比高四〇mばかりの御岳山と呼ばれる小高い尾根の末端部にある。(中略) 麓には駒形神社があり、一名駒形城の名で呼ばれていて、馬との関係が考えられる。(中略) 古道に面して交通の要地である。

 「馬との関係が考えられる」とありますが、「牧」があったという話がないので、「注目」だけに終わりました。

茅野市西茅野の駒形神社

 宮川を渡り、旧西茅野村の古い集落の道を山手に上っていくと、石造物が幾つか並んでいる辻があります。この道は二回目ですが、前回は下りに使ったので初めて見ることになりました。読めない神号碑と摩滅した道祖神とあって早々に興味を失いましたが、確認順の流れで、その先へ続く道を選びました。

駒形神社 突き当たりのT字路から下方を見通すと、すぐ下の交差点に火の見櫓が見えます。石造物との「二点セット」で、この辺りが集落の中心地であることがわかりました。
 再び山手に向かうと、大きくはありませんが、この辺りでは抜きん出ている木が見えます。予感どおり現れた鳥居の額には「駒形神社」とありました。半開きの本殿を覗くと、何と、本殿の中に石祠が安置してありました。

駒形神社の石祠 石祠が古くて貴重な場合は本殿の中に御神体として祀ることがありますが、自分の目で見るのは今回が初めてのケースとなりました。こうなると本殿が覆屋で祠が本殿と言うことになりますが、理屈はともかく、同じ名前の「駒形」と古そうな石祠とあって「ある危惧」を覚えました。
 今日の目的「駒形石祠」は、本には「宮川村」と書いてあります。昭和30年に合併して諏訪郡茅野町になる以前の昔のことですから、その後の茅野町→茅野市への変遷の間に、駒形城址にある祠が「保護のため」にここへ移された可能性があります。それを頭に置くと、向拝柱は色が異なるので後世に補完したことは確実ですが、屋根も台座もますます古く見えてきます。左の扉を開いて側面に刻まれているかもしれない「永禄」を確認する誘惑に駆られましたが、駒形城址で石祠の有無を確認してからでも遅くないと、その可能性を振り払いました。

駒形城址の駒形社

 駒形神社からさらに山手を目指します。人家が途切れると、左の尾根先に取り付く石段と鳥居が見えます。それを正面にすると、鳥居には「御嶽神社」と書いてありました。「駒形城」の案内板はありませんが、サイトの写真や『茅野市史』で「この上」にあることがわかっています。

駒形城址の石造物群 45度はあると思われる傾斜と靴底の三分の一が空中という狭い石段、積もった落ち葉の下の状態がわからないまま慎重に足を進めます。登り切る手前に、鳥居に対応する「御嶽山大権現」の神号碑がありました。
 尾根先はマウンド状になっており、その頂部に石像・文字石神仏・石祠・木祠が散在しています。ヨソ者にとっては「この場所になぜ」という大きな御柱でしたが、「天神講一之御柱」とあるので、その中心にある小さな木祠が天神様とわかりました(写真中央)。愛宕山・秋葉山・高尾山・摩利支天などと刻まれてある神号碑は一目瞭然ですが、石祠には銘が彫ってないので社名も祭神もわかりません。それに「大日如来」や不明な石仏が絡み複雑さを極めています。

駒形社と御柱 尾根上へ向かう手前の窪地に、ここでは一番大きい木造の祠があります(写真右)。注連縄が掛かった流造の神祠ですが、中には簡素な厨子に入った小さな仏像が覗けます。見た目は神社ですが実質はお寺というこの祠ですが、「諏訪の常識」である御柱が建っていました。写真の左に写っている白い柱がその「三之御柱」です。その根本にあるのが目的とする「駒形祠」でした。

駒形城址の駒形社「石祠」 一部屋根が欠損していますが風化は少なく、側面には「永禄──」と刻まれた文字が読み取れました。
 向拝柱が屋根の差し込みと台座の穴から外れているために、屋根が手前に持ち上がっています。直したい誘惑に駆られましたが、「本来のホゾ穴に組み込むとゆるくて外れるので、やむを得ず現状の形にした」ことに気が付きました。
 石祠で真っ先に破損・行方不明になるのが向拝柱です。身舎と同じ“風合い”ですから同時期に作られたのは間違いありません。接触面が線になったのが原因と思われる屋根の回転が気になりますが、このままがベストとしました。高さは56センチでした。

駒形社の銘 四百五十年前に作られた石造物ですが、御小屋山の「御小屋明神社」と同じく風化があまり見られません。「神宮寺石」にも見えるので耐風化性のある石質・木漏れ日が当たるだけの林間という条件などが幸いしたとも思えますが、疑った見方では、「銘はいつでも彫れる」ので果たしてその時代の物なのかは証明できません。
 その時代の祭祀者や石工は、後世の人が「何年前に作られた」などと「ランク付けや詮索」されることになるとは思いも及ばなかったはずです。無銘の祠が圧倒的に多いのもそのためでしょう。しかし、“祠古きが故に尊からず”とわかっていても、これは私の価値観の一つなので、古い元号を見つけると、つい「このような形」で紹介してしまいます。ということで、予定になかった上写真を追加してしまいました。

 『茅野市史』の「駒形城」には「後三年の役(1083〜)・久寿(きゅうじゅ)年間(1154〜)」が見られますが、この城がいつ頃まで使われたのかは書いてありません。永禄年間に城中の馬に関わるものとして安置されたのか、明治以降の合併騒ぎで持ち込まれたものなのかは不明のままで「駒形城址の石祠」を閉じることにしました。

 この世の中には、「規模が段違いに大きい」と言っても何も残っていない城「跡」を見に来る人もいれば、御利益もなくパワースポットでもない「馬の神様の古家」をわざわざ探しに行く人もいます。大いなる無駄とも言える行為ですが、「これが人間であることの証明」と大見得を切るしかありません。