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胡桃沢神社 諏訪市湖南 17.4.16

 地図を頼りにしてたどり着いたのは、胡桃沢(くるみざわ)神社ではなく「蓼宮神社」でした。駐車場で見かけたトラックの運転者に「胡桃沢神社はどこ」と尋ねると、「知らない」と言います。車に大きく「社(やしろ)建設」と書いてあるのですが…。本には「湖南北真志野(こなみきたまじの)」とありますから、この近くにあるのは間違いないと思われます。しかし、「蓼宮神社」を基点に周辺を歩き回りましたが見つかりません。

胡桃沢神社 今日はこれまで、と見納めに丘陵の下に目を転じると、…何かを感じました。ビニールハウスや民家の間に下枝が刈り払われた直立した木が二本あり、その下が神社のように見えます。高くはありませんが御柱らしきものも見えます。
 10倍ズームのカメラを向けますが、画素が少ない液晶のファインダーでは細部まで見えません。この年では期待薄の肉眼ですが、目を細めると御柱が2本束ねたように見えます。「生来の乱視だから」とどこからか聞こえてきましたが、胡桃沢神社であることを確信しました。

胡桃沢神社

胡桃沢神社 何回かの行きつ戻りつの後、本来の目的である、御柱を二本束ねた“W御柱”の前に立つことができました。旧郷社である蓼宮神社に比べれば、胡桃沢神社の本殿は祠という規模ですが、御柱は短くても存在感がありました。一之御柱は5m以上はあるように見えました。

胡桃沢神社
 一名御社宮司社であり、石棒が祀られている。伝説では、諏訪明神の孫神胡桃沢(くるみざわ)明神を祀ったとも、胡桃沢豊後守の氏神であるとも言われている。
胡桃沢豊後守泰時 兄は有賀城主の有賀入道性存

 神社前にある案内板です。石棒を拝見、と近づきましたが、隙間から見えたのは幣帛の白だけでした。

“W御柱”は、2本ずつ計8本の御柱

 2本を束ねた計8本の御柱が建てられるようになったのは、「鉄砲水で流されてきた祠を真志野(まじの)地区が祀った。それが有賀地区のものと分かってからは両地区が合同で祀り御柱を建てることになった」という言い伝えがあるからだそうです。また、「旧鎮座地の部落に敬意を表して、有賀地区の御柱をやや長くしている」そうです。そのため、胡桃沢神社は、上社本宮の近くにある大国主命社のW御柱と違い、ほぼ同格の大きさというのがミソです。

 平成28年の新聞記事では「有賀区と(北真志野)大北常会」とありました。

 豊田村誌編纂委員会『豊田村誌 下巻』から転載しました。

胡桃沢社 胡桃沢社は面積三五坪の、胡桃沢豊後守を祀る神社である。昔は現在の西山公園上部(有賀)に祀られていたが、北峠よりの洪水により今の地に流されたという。現在北真志野地籍にありながら、この境内のみ豊田地籍であり厄除けの神として信仰されている。(後略)

 また、栗岩英治編纂兼発行者『信濃郷土史研究叢書諏訪研究』の〔石神崇拝の遺風(中)〕に、別の一文がありました。(クセのある文体なので)原文を損ねない程度に現代カナ漢字に直してあります。

 諏訪の今日は非常に多くの御社宮司社があるけれど、それは比較的近代に勧請したものが少なくないのも事実である。何故と云うに、諏訪の人は、御社宮司のない村を新らしいと見なす風がある。従って新田取扱を免れようとするなどの時は、まず御社宮司を勧請する。或は部落間の境界にある古い御社宮司社を取込むなど云う事もある。
 現に今、湖南村と云う大部落である真志野(まじの)は南北二つに分れて居て時々喧嘩(けんか)をするが、南真志野には七つの御社宮司があるけれど、北にはない。所が北真志野の隣りに有賀村と云う最も大きな部落があって、慶長前まではその部落間に胡桃澤と云う部落が介在していた。この部落は後に有賀に併合したために、その御社宮司は独り野中に残る事となった。所で有賀は旧村で矢張り七御社宮司を有しているから、強いてこの御社宮司社を持込まない。けれども一方の北真志野部落ではこれを欲しくてたまらない。
 そこで何時とはなしに、その野中の御社宮司社の祭りを始めたものだ。が、そうなると有賀の方でも左様はさせぬという様ないきさつに成って、ついそのままになつていると云う事だ。
 今日となつては誠にばかげた一笑話に過ぎないけれど、以て諏訪人が、如何に御社宮司なるものに重きを置くかが分るだろうと思う。それ程であるから明治の御世になっても、幾多の御社宮司社が出来たのである。

 定説の「鉄砲水で流されてきた…」とは違います。また、胡桃沢社は「有賀の七御社宮司の一社」ですから、これも矛盾します。しかし、話としては面白いので紹介しました。

胡桃沢神社 平成19年4月14日、再び桜の季節に訪れました。本殿板壁の収縮が進んだのか、隙間が大きくなっていることに気が付いたので、失礼して覗いてみました。大きさはわかりませんが、大小二本の石棒が見えます。「御社宮司社であり、石棒が祀られている」という記述が確認できました。

胡桃沢社と千鹿頭社 28.7.12

 現代史料では、旧有賀村から土石流で旧北真志野村に流された胡桃沢神社は、その経緯から「その境内地だけ有賀の飛地」としています。その胡桃沢神社ですが、江戸時代に編纂された『諏訪藩主手元絵図』では有賀村内に書かれ、「鎮守」という扱いです。その一方で、千鹿頭神社には産神(産土)と書いてあります。
 一村に(村を代表する)鎮守社と産土(うぶすな)社が二つ? ということで調べると、「鎮守神(ちんじゅがみ)とは特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神である。(Wikipedia)」とあります。これが当時の一般的な認識だったのかは別として、祠と境内地を「特定の建造物や一定区域」とすれば納得できました。
 また、胡桃沢神社は有賀村の重要な神社ということを公(特に北真志野村)にアピールするために「鎮守」の称号を加えたと想像してみました。

『諏訪藩主手元絵図』 28.7.21

 これまで、「胡桃沢社は旧北真志野村に鎮座しているが、境内地は旧有村」と書いてきました。改めて『諏訪藩主手元絵図』を眺めると、「胡桃沢社は有賀村にあり、北真志野村ではその場所が白紙になっている」ことがわかりました。江戸時代の絵図でも“そのこと”が証明されましたが…。