地図を頼りにしてたどり着いたのは、胡桃沢(くるみざわ)神社ではなく「蓼宮神社」でした。駐車場で見かけたトラックの運転者に「胡桃沢神社はどこ」と尋ねると、「知らない」と言います。車に大きく「社(やしろ)建設」と書いてあるのですが…。本には「湖南北真志野(こなみきたまじの)」とありますから、この近くにあるのは間違いないと思われます。しかし、「蓼宮神社」を基点に周辺を歩き回りましたが見つかりません。
今日はこれまで、と見納めに丘陵の下に目を転じると、…何かを感じました。ビニールハウスや民家の間に下枝が刈り払われた直立した木が二本あり、その下が神社のように見えます。高くはありませんが御柱らしきものも見えます。
10倍ズームのカメラを向けますが、画素が少ない液晶のファインダーでは細部まで見えません。この年では期待薄の肉眼ですが、目を細めると御柱が2本束ねたように見えます。「生来の乱視だから」とどこからか聞こえてきましたが、胡桃沢神社であることを確信しました。
何回かの行きつ戻りつの後、本来の目的である、御柱を二本束ねた“W御柱”の前に立つことができました。旧郷社である蓼宮神社に比べれば、胡桃沢神社の本殿は祠という規模ですが、御柱は短くても存在感がありました。一之御柱は5m以上はあるように見えました。
神社前にある案内板です。石棒を拝見、と近づきましたが、隙間から見えたのは幣帛の白だけでした。
2本を束ねた計8本の御柱が建てられるようになったのは、「鉄砲水で流されてきた祠を真志野(まじの)地区が祀った。それが有賀地区のものと分かってからは両地区が合同で祀り御柱を建てることになった」という言い伝えがあるからだそうです。また、「旧鎮座地の部落に敬意を表して、有賀地区の御柱をやや長くしている」そうです。そのため、胡桃沢神社は、上社本宮の近くにある大国主命社のW御柱と違い、ほぼ同格の大きさというのがミソです。
平成28年の新聞記事では「有賀区と(北真志野)大北常会」とありました。
豊田村誌編纂委員会『豊田村誌 下巻』から転載しました。
また、栗岩英治編纂兼発行者『信濃郷土史研究叢書諏訪研究』の〔石神崇拝の遺風(中)〕に、別の一文がありました。(クセのある文体なので)原文を損ねない程度に現代カナ漢字に直してあります。
定説の「鉄砲水で流されてきた…」とは違います。また、胡桃沢社は「有賀の七御社宮司の一社」ですから、これも矛盾します。しかし、話としては面白いので紹介しました。
平成19年4月14日、再び桜の季節に訪れました。本殿板壁の収縮が進んだのか、隙間が大きくなっていることに気が付いたので、失礼して覗いてみました。大きさはわかりませんが、大小二本の石棒が見えます。「御社宮司社であり、石棒が祀られている」という記述が確認できました。
現代史料では、旧有賀村から土石流で旧北真志野村に流された胡桃沢神社は、その経緯から「その境内地だけ有賀の飛地」としています。その胡桃沢神社ですが、江戸時代に編纂された『諏訪藩主手元絵図』では有賀村内に書かれ、「鎮守」という扱いです。その一方で、千鹿頭神社には産神(産土)と書いてあります。
一村に(村を代表する)鎮守社と産土(うぶすな)社が二つ? ということで調べると、「鎮守神(ちんじゅがみ)とは特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神である。『Wikipedia』」とあります。これが当時の一般的な認識だったのかは別として、祠と境内地を「特定の建造物や一定区域」とすれば納得できました。
また、胡桃沢神社は有賀村の重要な神社ということを公(特に北真志野村)にアピールするために「鎮守」の称号を加えたと想像してみました。
これまで、「胡桃沢社は旧北真志野村に鎮座しているが、境内地は旧有村」と書いてきました。改めて『諏訪藩主手元絵図』を眺めると、「胡桃沢社は有賀村にあり、北真志野村ではその場所が白紙になっている」ことがわかりました。江戸時代の絵図でも“そのこと”が証明されましたが…。
「明治7年」とある長野県立歴史館蔵『湖南村ノ内北真志野耕地』の一部です。何ヶ所も「有賀(アルガ)トビチ」が見られますから、この後に編出入があり、胡桃沢神社の社地のみが残されたのでしょう。