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謎の神紋「丸に十字」 茅野市達屋酢蔵神社 28.11.3

 下の写真には、道路標識と歩道橋が写っています。それらは国道のバイパスに付随したものですが、ファインダーを覘くまでは、達屋酢蔵神社の裏がこのような景観であったことを知らずにいました。もちろん「◯◯山を見ず」の例えで、単に、自分の意識に焦点が結ばなかったということに原因があります。


 すでに何回か“徘徊”している達屋酢蔵神社の境内ですが、今日初めて最奥に並んでいる石祠に目が留まりました。基壇上にあり灯籠の台座も二基残っていますから、同じ境内社でも別格かもしれません。

 背後から撮りました。“親社”の三之御柱と比べれば爪楊枝(つまようじ)ですが、新しい御柱が建っています。
 今回は、左の祠に注目しました。屋根前面のカーブが深いので、私の“石祠編年”に照らし合わせるとかなり古い時代となります。

 身舎の側面と背後には何も刻まれてないので表に廻って覗き込むと、刻みに朱が残っています。

 その一番目立つ位置に、何と「」があります。諏訪では、この紋を代表する島津家というより、神長官守矢家の紋ですから、目が「・」になりました。

 右側は「寛文八年戌申」で、左は「十月十七日 横内村」です。ただし、「十七」は赤いラインから読み取ったもので、刻みとは違う字のようにも見えます。

 この場では寛文に西暦を当てはめることはできません。それより、が問題です。巻(まき)の祝殿とすれば「守矢氏」となりますが、「横内村」とあるので、達屋酢蔵神社に関係が深い摂社とも思えます。気にはなりますが、これ以上はわかりません。

 寛文八年は1668年でしたが、古いことはわかっても身近な年号ではありません。調べると、私にはピンとくる「寛文14年 保科正之が死去」がありました。因みに(関係ありませんが)、彼は徳川家光の異母弟で会津藩初代藩主ですが、幼少期を伊那市の高遠で過ごしました。諏訪大社上社の御射山社には、その正之公が植えたという「会津松」があります(現在は枯死)。

 は、御社宮司社なのか

 後日、再び達屋酢蔵神社に向かうと、隣の横内公民館で文化祭をやっていました。居合わせた男性に訊いてみると、「あれは、ミシャグジ」と返ってきました。突然登場したミシャグジですから、私としてはそのまま受け入れることはできません。「横内区としてはそうなのか」という程度で自宅へ戻りました。

 手っ取り早い史料として諏訪史談会編『復刻諏訪史蹟要項六 ちの町篇』の〔達屋酢蔵神社〕に目を通しますが、これといった記述はありません。ところが(と接続詞を書いたように)、これで終わらせないのが、このサイトの“凄さ”です。
 一見関係がない「御柱」の項を読むと、何かが光りました。「御柱の文書は多数あるが、その中の一部を参考に記してみる」とある、寛政6年の文書です。

  御柱数書上
氏神様(※達屋酢蔵神社) 長さ壱丈五尺
 一、四本 壱尺下り 末口六寸
御社宮寺(※司)・山之神
 一、八本(※2社分) 長さ七尺 末口弐寸
小宮十三社分
 一、五十二本(後略)

 ここに書かれた「御社宮司・山之神」が、ここで取り上げている別格の石祠二棟に相当することがわかります。

 この「氏神様」に次ぐ格式は文政元年(1818)の『御柱数書上』も同じですから、それが現在まで継承されているのは間違いありません。そのため、一般の氏子でも「あれはミシャグジ」という意識を持つことができるのでしょう。「丸に十字」については、家紋を刻んだ石造物を奉納する例は多くありますから、神長官(守矢氏)がこの祠を横内村に寄進したとすれば、説明がつきます。

 一つ気になるのが、文字に塗られた朱です。何かの目的があってマーキングしたと思われますが、あれこれ想像してみても、納得できるものはありません。