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間下十五社神社 岡谷市山下町 22.11.11

 岡谷市には、長野県神社庁“公認”の「十五社」が四社あります。その一つが「山下町」にある十五社神社です。古くは「間下(ました)村」ですが現在でも「岡谷市間下」で通用するので、『神社由来』に倣って「間下十五社神社」としました。

【間下】 「傾斜地・崖線(がいせん)」を表す古い言葉に「まま(間々)」があります。この辺りはすぐ西に山が迫っていますから、その「下」で「間下」となるのでしょう。現在は「山下町」と改称したので“その通り”になりましたが、余りにも“字そのまま”で、やや引け目を感じている住民がいるのでは、と思うのは私だけでしょうか。
【十五社】 拝殿前にある『神社由来』に「十五社は…」があるので、それを含めた全文を転載することで説明に代えました。

間下十五社神社由来
 往古郷土の守護神として十五社大明神を勧請し宮林地籍(堂山西北部)に石造神殿を建立祭祀し住民尊崇の中心となす。
 当時堂山東南の塚間川沿岸に居住していた村人たちがたびかさなる氾濫による水害を避けて、正保年間に現間下地籍に屋敷割りをし水路を整備して集団移住して村づくりが行われた。この時神殿も村の西北に当たる高台の現在地に遷座したものと記録される。現在の木造本殿は、その後安永三年(1774)に奉造したものであることが昭和五十四年の本殿修復の際、棟札により確認された。
 大正時代製糸業の全盛期に至り、充実した村財政と氏子の認識と熱意により現拝殿の建立が推進され、大正八年二月着工、翌大正九年十月十八日完成竣工式が行われた。
 その際、社格が幣帛供進指定村社に昇格し間下十五社神社と改称された。以来当神社の例祭は毎年十月十八日に執り行われることが最近までの慣例であった。
 十五社神社は建御名方命(諏訪大明神)とその妃神八坂刀売命及び御子神十三神、合わせて十五柱を祀ることから十五社と称している。(祭神名裏面に記す)
昭和五十四年十月吉日 間下区 

間下十五社神社

「間下十五社」 35年間も頭に刻まれていた「間下にある十五社」でしたが、その場所に足を運ぶと、山の斜面に降り積もったカラ松の落ち葉の中に散在する小さな社しかありません。それらの「石祠巡り」となってしまった一時の彷徨(さまよ)いの後、藪が少ないこともあってそのまま林の奥に突き進みました。

 実は今回が初めての参拝で、市営球場へ続く道沿いにある小さな石鳥居と石造物を境内社とし、その斜面を上る道を十五社への参道としたのが迷走した原因でした。
 その先に黒く大きな社殿が現れました。近づくと本殿の真後ろでした。祭神には「背後から忍び寄る不審者」に見えたかもしれません。

「間下十五社」 一気に神社の中枢部と言うべき本殿横に立ってしまいましたが、覆屋の柱と梁さらに瑞垣で囲まれていて「これが本殿だ!」と紹介できるような姿が撮れません。神域の尊厳を損ねる負い目を感じながら、本殿の基壇と境内社の間から本来の境内へ飛び降りました。
 右下に一部写っている境内社は横一列に整列した十棟以上の木祠や石祠で、共通の瑞垣と御柱が新しいこともあって圧巻でした。その前の木札には一社ずつ祭神名が書いてありますから、関係者の管理が行き届いているのがよくわかります。

茅間下十五社拝殿 30年以上前に、岡谷の製糸工場の実態を書いた山本茂実著『あゝ野麦峠』が映画化されました。私はテレビで視聴していましたから、拝殿前の『神社由来』にある「製糸業の全盛による充実した村財政」を読んで、彼女らの乏しい稼ぎの一部がこの拝殿の造営に“絡んで”いるのを知ってしまいました。
 この写真も左にわずかしか写っていませんが、拝殿の左手前の斜面にも境内社がこれも横一列に並んでいます。すでに、著名な神様は「右側」で確認済みですから、こちら側には何を祀ってあるのだろうと足を向けました。ところが、全社揃えたかのように“表札”がありません。どうも、「巻(牧・まき)の祝神」のようです。同族だけが祀る「内々」の神なので、「名前の公表」などは必要ないのでしょう。

 下写真の建物は、参集所とも社務所とも、はたまた舞屋か旧拝殿だったとも思える間下十五社神社で“一押し”の建物です。とりあえず、現在の用途と思われる「参集所」としました。屋根の右側は方角では西ですが、背後が山という環境です。「北側」と同じ条件なので痛みが早く進むのでしょう。単管の足場が組まれ片側だけがトタン葺きになっていました。

「間下十五社」 帰りに通った「ここに出るのか」という参道は、民家の間にある歩行者専用の道でした。県道からは幟枠も鳥居も奥まっていますから、ここが参道とは35年もの間まったく気が付きませんでした。
 何か「巻き戻し」のような説明になりましたが、この参道から鳥居をくぐって直進すると、この参集所に突き当たります。写真では、左側から(左下の)灯籠の間を通る道です。この前を右折する(写真では手前に曲がる)と拝殿─本殿ラインですから、参道─灯籠─参集所ラインを重視すると、この参集所がかつての拝殿で、右側の斜面に本殿があったように思えてしまいます。

間下十五社 この「格子」は、上写真では右壁面の出っ張りです。中には幣帛が置かれ、手前には極小ですが本殿と思える祠があります。この祠が無ければ「かつての作り付けの幣殿」とも思えますが、この配置では、参集所の中から手前の本殿を拝むのが正式なラインになります。普段は閉めてあるので、外からも拝礼できるようにと言う配慮でしょうか。
 かなり気になる造りなので、中を覗きながらあれこれ想像すると「拝殿新築とそれに関わる本殿移築までの仮本殿」となりました。幣帛があるのは、「空き家になったので境内社の一つが入居した」としました。結論まで出してみましたが、『神社由来』だけが「根拠」という立ち寄り参拝者の推論なので、やはり、「謎の構造物」で終わらせるのがベストでしょうか。

十五社神社

 岡谷市『復刻平野村誌』に「十五社神社」があったので、重複する箇所がありますが紹介します。

 間下にある。明治以前は十五社大明神といい、後十五社と称したが大正九年十月十五社神社と改称した。
 間下村は元塚間川付近今の堂山墓地邊(辺)にあって、今尚古屋敷・屋敷添等の小字が残っているが、その頃本社は通常産土神の位置とされる村の乾(※北西)の方字宮林に鎮座していた。
 徳川時代の初め頃(「小社神号記」には正保年中とある)間下村落の現在の場所に移転すると共に、鎮守も新住居地の乾の方である今の地に遷座したのである。旧社地は今も小字宮林で、近年までその社壇跡は畠中に残されていたが、諏訪倉庫会社社宅建築の敷地となって取り払われてしまった。
 「小社神号記」によれば元石の宮であったのを安永三年に宮殿を造立したとある。しかして棟梁は伊那郡平出赤羽杢頭と記されている。大正六年より拝殿新築をはかり用材は木曽御料林より払い下げの許可を得、同九年十月工く成る。
 明治五年村社に列し、大正九年八月六日神饌幣帛料供進神社に指定された。

 岡谷市の旧村社に「十五社」が多いのが不思議です。特に、今井村・間下村・岡谷村と連続した旧村が鎮守に「十五社」を選んだのは何かの理由がありそうです。「数を多い(頼み)とする風土」とは思えませんから、諏訪湖を挟んだ「ミシャグジ祭政圏」に対抗して「正統派の建御名方命一族」を祀ったということでしょうか。