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夫婦石「真清神社」 下諏訪町新町 18.4.1

 秋宮から春宮へ向かう道は、“趣向”を変えて一段上の国道にしました。東京では桜が満開という土曜日、花見の名所でもあるその国道142号沿いの桜並木はまだ冬姿でした。車道の端には、先日降った雪の証が塩カルの粒として残っています。前述に「一段上」とあるように、急傾斜崩壊指定地をトラバースする国道谷側の歩道からは諏訪湖がよく望めます。さらに足の向くまま山側に続く道に入り込み、国道と平行した小路を歩いてみました。

真清神社

真清神社 左下に大小様々な祠が見え、そこへ誘導するかのような小道を下ってみました。社や石祠が多数あります。メインは最大規模の真清神社と思われますが、どう読むのか分かりません。その変わった名前の拝殿内に、大きな大黒像が格子の向こうに見えますが、取り立てて“どうこうする”神社ではありません。挨拶して通り過ぎようとしましたが…。

夫婦石

夫婦石 狭い社地の隅に「奇石・夫婦石の由来」とある案内板に目が行きました。「この夫婦石は元下諏訪遊郭『真寿美楼』の中庭にあり夫婦和合の証として庶民の崇敬せるものなり。この石に祈願すれば夫婦円満子宝に恵まれ家運隆盛となる。〔真清講社〕」とあります。遊郭にあったものなどに夫婦円満の御利益などあるはずがない、と思いますが、それが奇石の「奇」石たる由縁なのでしょうか。

真清神社と夫婦石

 ネットで検索すると、『下諏訪町』の〔鎌倉街道ロマンの道〕紹介の中で、「この神社にもうでれば美人になり芸達者にもなるといい、花柳界の人たちの参拝が多かった。下諏訪に遊郭があった頃、真清楼(ますみろう)の先代が中心になって有志で講をつくり、お稲荷さんを祭って建てたのがこの神社。下諏訪に遊郭が設けられたのは明治13年頃で、大正時代には芸妓が120〜130人、置屋も30軒を数えるなど、花柳界華やかな時代もあった」とあります。

現在は、(障りがあるのか)削除されています

 それによると、「遊郭が廃止になって(遊郭)商売繁盛という初期の目的を失った稲荷神社に、同じく居場所がなくなった夫婦石が持ち込まれて今我々が目にする景観になった」ということになります。偶然訪れた時は無関係だった真清神社と夫婦石ですが、共通の核(殻)を失ったという生い立ちが秘められていた、という表現は少々大げさでしょうか。
 これで、「遊郭」は死語となっても「講」は生き残り、その講中の人々がそれぞれに御柱を建てるという図式が浮かび上がったというわけです。それにしても、夫婦石を絶妙の位置角度に配置した講中の人に頭が下がります。きっと「古き良き時代」を堪能した男達なのでしょう。

 柳平千彦著『諏訪歴史散歩』に、〔花街の姐さんで賑わう〕の題で「真清神社」が載っていました。「発起人は遊郭の顔役だった両角定次郎である」「祭神は天照大神はじめ十八柱の合祀だったが、お姐さんたちはいつの間にか自分たちの都合の良いお稲荷さんを中心にすえ、(奉納した陶製の)狐の山を築いた」などとあり、下諏訪町の“公式見解”とは異なった内容でした。