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御手洗神社 諏訪郡原村柳沢 25.10.6

 長野県神社庁では「御手洗社」の名称ですが、ここでは「御手洗神社」で進めます。

 御手洗(みたらし)神社の概要を以下の二書から転載しました。

 柳沢区の伝承では、「7年に一度の諏訪明神の式年御柱祭に、大祝以下五官一行が御小屋へ御柱迎えに登山されるとき、御柱街道最終の村である柳沢新田付近にて休憩されて、御小屋山の石祠の下より出ずる湧水を原水とする弓振川で身を潔めて里の汚れを落とした所で、そこに神社を祀った」と言う。
中村久太郎著『近世の中新田村』から抜粋
 柳沢新田の氏神で、祭神は建御名方命。創建は詳らかでないが、開発当初柳沢新田の産土神として承応三(一六五四)年に勧請されたと、いい伝えられている。
 柳沢新田は御柱曳行時、御小屋山登山最後の集落であり、御小屋山諏訪明神社境内から流れ下る弓振川のこの地で、御手洗神事が行われていた。これが神社の発祥となり、社名も御手洗社となったという。特筆すべきは磐座を御神体としていることで、古い祭祀の場とみられるが、その磐座は現在本殿に覆われて拝観できない。なお『諏訪藩主手元絵図』に、この神社は「明神」と記されている。
原村四百年史編纂委員会『郷土の歩み』から抜粋

 御手洗神社は柳沢集落の東端にあるので、それより先には一般住宅はありません。田畑はまだ広がっていますが、それも“ここが限界”と言っているような八ヶ岳裾野の森に阻まれて終わっています。

原村柳沢

御柱祭「山出し」
御柱の曳行「山出し」(16.4.2)

 冒頭に出た、御手洗神社と関わりがある御柱祭の写真を載せてみました。中央部にある林が、前述の「八ヶ岳裾野の森」です。かつては、この中に、御柱を曳行する綱を保管した「綱置場」がありました。現在は記念碑があるだけですが、その前が、御柱祭「山出し」の出発点となっています。
 この写真には、御手洗神社を産土社とする「柳沢」の区旗が写っています。場所は、“奇しくも”御手洗神社の上辺りでした。御柱は、並び立つ旗で、右に傾いたメドテコしか見えません。

御手洗神社参拝

 10月に入ってから、御手洗神社を再訪してみました。

御手洗神社

 鳥居と社殿は八ヶ岳を背後にしていますが、参道は「御手洗の井戸」脇を通る横手となっています。
御手洗神社 写真は拝殿で、後方に本殿の覆屋が連結しています。覆屋の下には石垣の基部が見えるので、その上に本殿もしくは磐座があることになります。
 かつての境内は背後が鬱蒼とした原始林で、そこにある大石に畏怖の念を抱いたのが御手洗神社の始まりと想像されますが、現在は開発が進み、風通しがよくなっています。

御手洗神社拝殿 拝殿の内部を覗いてみましたが、扉に阻まれてその向こうに何があるのかまったくわかりません。磐座だけなのか、それともその上には祠があるのか、影も見えないので想像することもできません。扉の透かしが「諏訪梶」ですから、名称は「御手洗」でも諏訪社であることがわかります。

御手洗神社 冒頭の写真にある井戸ですが、草で覆われていたので、古写真を代用しました。社名とも繋がる由緒がありそうな御手洗の井戸ですが、「御手洗は弓振川」とされているので、単なる社頭の御手洗ということでしょうか。

酒室神社と御手洗神社

 諏訪では(現在も)神体を磐座としている神社は稀少なので、諏訪神社上社の御狩神事と密接に関係する茅野市の酒室(さかむろ)神社が気になります。同じように磐座を神体とし、近くには弓振川が流れているからです。


 地図で確認したら、両社は東西の直線上にピンポイントで並んでいることに気が付きました。また、弓振川は下流域で大きく蛇行していますが、上流ではほぼその線に沿っています。いつもの習いで“何かある”としましたが、手持ちの知識では両社には繋がるものがありません。
 (御手洗神社の)磐座が、旧柳沢新田村の開村以前から御柱祭の祭場の一つとして祀られていたとすれば、諏訪神社上社(現諏訪大社上社)と御柱祭を仲立ちにした共通点があります。しかし、これをレイラインとするには決定的なモノがありません。また、両社は肉眼では互いに見通すことはできませんから、当時の技術では東西のライン上に造営することは不可能です。
 これは、両社の“何か”と言うより、弓振川が関係しているとした方が自然です。弓振川は、南北に連なる八ヶ岳連峰の裾野の傾斜に逆らわずに(等高線を直角に割って)刻まれた川とわかりますから、弓振川の上流と下流に、たまたま磐座を崇める二つの神社があったというのがオチでしょう。
 その磐座を拝観したいのですが、同じ原村の住民である私ですが、未だに果たしていません。


‖サイト内リンク‖ (磐座がある)酒室神社