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大乗妙典千部塔 諏訪市湖南 19.4.29

 「蓼宮神社のミツバツツジがそろそろ」と、早春花の誘いに乗りました。通称「西山」の等高線に沿った裾道をのんびり歩いていると、道下に「オヤッ?」を見つけました。御柱(おんばしら)が、笠塔婆にも似た塔を囲んでいたからです。諏訪では、社(やしろ)や祠に諏訪大社と同じ御柱を四本建てますが、ここでは仏塔に御柱という取り合わせです。

大乗妙典千部塔

 その前に回ると、果たして「大乗妙典千部塔」と彫られた供養塔でした。
大乗妙典碑 しかし、その右に並んだ石祠には幣帛が見えますから、半分は納得できました。ここでは、仏と神は、対の灯籠もある坪庭ならぬ坪境内の中心に等しく寄っていますから、全く同格の扱いとなっています。「神仏習合」という便利な言葉がありますが、それにしても御柱の存在がしっくりきません。
 供養塔の背には、「明和八年」と「願主 金子治左衛門・同妻」が刻まれていますが、それ以外の銘文は全く理解できません。まー、これはこれで面白いと、取りあえず写真を撮りました。
 田畑の準備にはまだ早い季節とあって、この道筋から望まれる範囲には人影がありません。その中で、これから出掛けるのでしょうか、車の脇に立っている男性を見つけました。
 これ幸いと近づいて「あの御柱は」と尋ねると、「この辺りに多い金子姓の先祖を供養している」と話してくれました。「祀る」ではなく「供養」と言うのが気になりますが、私の言葉足らずが原因だったのかもしれません。

大乗妙典とは

 供養塔に刻まれた「明和八年」を調べると、西暦1771年でした。また、苗字の「金子」から、名主クラスの治左衛門さんが、およそ230年前に建てたものとわかります。ところが、「大乗妙典供養塔」と左右の「奉納経日本回國」「奉順禮百番供養」の碑文ですが、私には未知の分野とあって何のことなのかサッパリわかりません。
 諏訪市博物館のサイトに『第24回企画展−石の文化史−』があり、見学ポイントの解説に「大乗妙典供養塔」を挙げています。

大乗妙典とは衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した経典。本来は大乗仏教の教義を記した経典全般を指すのであるが、一般的には法華経、妙法蓮華経のこと。この経典を一定回数読誦したときの記念に建てたもの。「大乗妙典」読誦記念碑。

 “公(おおやけ)”には「百番供養塔」という名称は見当たりませんが、ネットの情報を要約すると以下のようになります。

江戸時代後期、西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所の計百ヶ所を巡礼した人が記念に建てた塔。

 三村邦雄著『松本平の石神石仏考』の〔廻国塔と納経〕から一部を転載しました。

…この各地の霊場などに納めることは、分散して保管するためと、追善供養のためと、さらに広める方法等になったのである。それは、大乗妙典(妙法蓮華経=略して法華経という)を六十六部書写し、それを持って全国六十六か国を廻り、各国の主要な霊場一か所づつへ追善供養と保管とをかねて、一部づつ納めたのである。

その祈願を果たした記念の碑文が「奉納経日本回國」となります。
 読経の回数も気が遠くなりますが、江戸時代に全国を巡礼した気力・体力・(塔建立の費用を含めた)財力には恐れ入るばかりでした。

大乗妙典二萬部

 帰りは、往きに使った道をベースに、上や下にと入り組んだコースを気が向くままに選びました。
大乗妙典碑 上り坂の右にちょっとした平地があり、その山手にあたる民家の板塀にかけて石造物が並んでいるのが見えます。
 この傾斜ではこれが精一杯というその広場を前にすると、正面の建物が青トタンでふさがれているのに気が付きました。かつては地区の集会所として使われた、としましたが、入口に宝篋印塔が建っていることから、その前身は何かの寺堂だった可能性もあります。

大乗妙典二萬部 目当ての石造物群の一つに近づくと、今度も「アレッ」です。千部をはるかに上回る「二萬部」でした。ここでは、御柱に囲まれて、左に「流造」の石祠・右に石仏を従えています。この時点で、「仏様に御柱が…」と唱えることは無駄なことだと悟りました。

 改めて、大乗妙典二萬部塔の側面に刻まれた銘文に目をやりました。しかし、「明和三丙戌年九月吉日」までは読みましたが、あとは意味不明の漢字の羅列に完読する意欲をなくしました。大乗妙典千部塔と同じ「明和」を有するこの供養塔ですが、その当時は一般民衆も豊かになって競って建てたのでしょうか。それにしても、普段の生活には全く必要がない「大乗妙典」という知識を得ましたが、加齢による“記憶ドミノ”現象でしょうか、何か大事なことが一つ消えたような気がしました。