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南宮神社と南宮木 岡谷市西堀 23.8.11

 「今は昔、諏訪湖で漁をする人々は、湖畔にそびえる大木を目印にして舟を出しました。その一つに南宮木があります」とは今回の「南宮神社」のプロローグですが、この昔話の続きはありません。

南宮木と濱南宮

南宮神社と南宮木 左の絵図は、田中阿歌麿著『諏訪湖の研究』所載の「浮城時代の諏訪湖(原図諏訪頼重(?)氏所蔵)」とある古絵図です。湖心から目標となるものが放射状に書かれている中で、左下の天竜川近くにあるのが「南宮木」です。
 現在その南宮木は存在していませんが、その名前の由来となったのが南宮神社です。嘉禎3年(1237)の奥書がある『祝詞段』と『根本記 下』には、それぞれ「濱南宮」「海(ハマ)ニ南宮」と載っていますから、古くからある神社です。
 岡谷市『復刻平野村誌』から、〔濱南宮〕を引用しました。

 次に濱南宮は上下濱の村社御社宮司神社をあてる説もあるが、明治四十二年西堀の村社八幡社境内へ移転した元横河川河口に鎮座の南宮社ではなかろうかと思われる。(今同所に南宮東・南宮西脇・南宮前・宮下等の小字が残っている)
 この社は往時諏訪湖御神渡り注進の際、御上り箇所見定の標點(点)となった南宮木の所在地である。尚濱南宮という社名は「諏方大明神画詞」祭四鯉馳の行事を記した中にも
《別掲》
と見えている。

 『平野村誌』は簡単な説明なので、《別掲》として全文を用意しました。

 当郡の湖上に、炎暑の比、風しずかなる日、鯉馳(こいはせ)と云う漁舟あり、里魚(鯉)をいとる(射取る)事也、他国にはたぐいまれ(類い希)なるおや、必ず神事の法則にあらねとも、神官氏人納涼の舟遊して祭礼の饗膳にたむ(手向)く。
 其の體(体)つりふね(釣船)数艘多少不同を流る(本ママ)(※流れぬように)くみつね(組連ね)て、堪能の射手一面にたちわたる(立ち渡る※立ち並ぶ)、矢はず(筈)をとりて是をまつまに(待つ間に)、左右に鵜縄をつけ其の縄手を引いて小舟二艘さきたち(先立ち)、かこ(囲)みをひろ(広)くなし、魚をこめて(※追い込めて)、おき(沖)よりみきわ(汀※なぎさ)をさしてこ(漕)ぎわたれば、其の中魚類恐して彼縄をこ(越)えんと遠海になりゆけ(成り行け※逃げ行け)ば、両方の縄のはし(端)を陸地に取あ(置)く、歩行の老少(※老若)是をうけとりて引寄ば、里魚た(絶)えずして水上におどる、其の時に面々射手矢さき(先)を整えて是を射る、十之(※中)八九は矢あたりて波上にうかぶ、串にさ(刺)すが如くしてとりあく(※取り上げる)、自(みずから)船中に飛入魚などもあり。
 是則(すなわち)上下末社小坂の鎮守・濱南宮の中間、津々浦々のわざ(技)興ある風情なり、見物の男女屋形船を漁舟にこぎならべ(漕ぎ並べ)て有宴す。(後略)
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』から『諏方大明神画詞』

 確かに『画詞』にも載る「濱南宮」ですが、方向・場所を表す代名詞に過ぎません。以下の江戸時代の書物・小岩高右衛門著『諏方かのこ』も「勧請せり」とあるだけで、由緒などは不明です。

一、南宮
下の濱邊(浜辺)に勧請せり、風さわやかに月清し、湖光翡翠(ここうひすい)をまよわし、草色蜻蛉(せいれい)を醉(酔)しむ、いと面白き所也、

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

南宮大明神 お馴染みの諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』から〔西堀村〕の一部です。「横河川」ではなく「中沢」と書かれているのが微妙ですが、当時はこれが川筋だったとしました。ここには「南宮大明神」と書かれ、鳥居は湖中に描いてあります。絵図通りだとすれば、広島の「厳島神社」にも似て、小岩高右衛門さんの“美辞麗句”もまんざらオーバーではないかもしれません。

南宮法性大明神 東隣の〔東堀村〕でも、村外に当たる余白の部分に「南宮法性大明神」として同じ南宮神社を描いています。ここでも目印となりそうな独立樹が見えますから、やはり、神社としてより「目標」として重要だったということでしょう。因みに、「南宮」の祭神と「南宮法性大明神」は「建御名方命」に当たります。
 以上、関連する資料を幾つか挙げましたが、南宮木の“その後”についての文献は見つかりません。治水工事などで完全に消滅し、切り株も残っていないのでしょう。

南宮神社

 『諏訪藩主手元絵図』では、西堀村の鎮守は「宇佐八幡」と書かれています。長野県神社庁では「八幡社」ですが、紛らわしいので「西堀八幡社」としました。また、西堀区では「南宮神社」と表記しているのでそれに倣いました。
 南宮木は知られていても南宮神社の由緒がわからないので、ブログ『西堀八幡社氏子総代日記』より「今日は境内に鎮座する南宮社を紹介しましょう」にある旧碑の銘文を転載しました。

http://hatimansha.exblog.jp/i6/2/
 そのかみ此地に南宮神社あり、建御名方命を祀り湖上安全の守護神なり、衆庶(しゅうしょ)の尊信頗(すこぶ)る篤し諏訪明神絵詞に鯉馳(こいはせ)祭の執行地として所載され、小社神号記に年々湯立の神事を挙行せしを記述せり、更に気象学上の古文献著名なる御渡注進状に神渡現象の方向を指示する目標地の一(ひとつ)にして登録せられたり、明治四十二年官旨(かんし)に基き八幡宮境内に遷座せるが故に、その尊跡の堙滅(いんめつ)を憂へ、茲(ここ)に此の石標を建立する所以(ゆえん)なり、
宮司 武井伊平 撰文 

南宮神社は、西堀八幡社に遷座

南宮神社 南宮神社は、現在、西堀八幡社の境内に鎮座しています。他の境内社とは別格で、やや小型ですが鳥居と幟枠と御柱が設置されています。幟棒が完備していますから、今でも例祭があり、その日には(多分)「南宮大明神」の幟が揚がるのでしょう。

南宮神社本殿 本殿の石祠ですが、周囲を観察しても銘は見つかりませんでした。この祠が、明治の後期までは横河川の下流・諏訪湖畔に鎮座していたのでしょう。時の政府の方針ですから逆らうことはできなかったとしても、やはり、縁の場所にあってこその南宮神社です。
 後日、伊藤正和・三沢弥太郎著『おかや歴史散歩』に、やや詳細な記述を見つけました。

『小社神号記』に、「南宮大明神村南湖磯小森石宮、文化五年四月十七日御ユダテ(※湯立神事)執行」と書かれている。

 「諏訪湖の磯」とありますから、湖岸に森のような木がそびえていたことが想像できます。また、現在の石祠(石宮)が文化5年(1808)以前に造られた可能性も出てきました。

南宮神社旧跡地(旧鎮座地)

南宮神社

 内が「南宮神社址」です。右が横河川で、私(撮影場所)の背後が、地図では約200m離れている諏訪湖です。実は、南宮神社址といってもどこにあるのか見当もつかない状態でした。ネットで粘り強く探した結果、岡谷市『歴史の道 文化財めぐり』のビデオ(YouTube)で〔南宮社址〕を見つけました。場所は西堀の横河川河口・県道岡谷下諏訪線の橋の袂で、現在は二代目の碑が建っていることがわかりました。映像では碑の背後が石垣であることから、これが、早々の発見に繋がりました。

南宮神社 ビデオと同じ石垣を目にすると、自動的に碑も“出現”しました。草に覆われた「連絡通路」を伝って畦道に下りると、「南宮神社址」碑は宅地下の田圃の縁に隠れるようにしてありました。スズメ除けのネットと石垣が邪魔ですが、碑の全体像を撮るにはこのアングルしかありません。何か悲しくなるような環境ですが、藪ではなく氏子が植えた梶の木に覆われているのに救われました。碑文があったので、以下に書き写しました。

昭和三十三年址碑を建立せしも倒壊しその再建を願い濱圭祐殿所有地の寄進により此所に建立す
 平成七年三月吉日
 八幡社宮司有賀寛典
八幡社氏子中 

 写真には写っていませんが、左後方は市営のテニス場です。歓声を挙げている女子高生と、「跡の碑」にカメラを向けている自分とにギャップを感じながら立ち去りました。

 この日は“夏始まって以来”の最高気温を記録しました。堪らず、自宅に戻ってシャワーを浴び、昼というのに缶ビール一本を開けてしまいました。標高1000mの原村でも33°でした。