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梨之木明神 富士見町御射山神戸 24.9.4

 諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』から「御射山神戸村」の一部を転載しました。富士見町指定史跡「御射山神戸の一里塚」が含まれているので、富士見町の住人でなくても、甲州街道を歩いた方ならこの附近の記憶が幾らかは残っているかもしれません。ただし、絵図は享保年間のものです。

諏訪藩主手元絵図「梨ノ木明神」 この絵図ので囲った場所に、「(?)しノ木明神」と書かれた何かがあります。『手元絵図』は、神社は「御社宮神」のように《神名》で書かれているので、「(?)しノ木神社」ということになります。江戸時代のことなので鳥居と木祠が一棟という規模と思われますが、地元の『御射山神戸歴史散策マップ』には“存在”していません。
 しかし、その場所が字(あざ)「梨木」と一致しますから、現在も「梨木明神」が祀られている可能性が出てきました。読みが「な」とわかれば、ミミズの塊のような字は「那」が最近似字ですから、当時の名称は「那しノ木明神」となります。

 小林浦光・伊藤勘編『御射山神戸区史』に、[御射山神戸年表]が載っています。

明治五年 区有地立木売却す、奥右衛門荒間・胡桃沢日影・山之神森・御社宮司・片瀬明神・大神宮・梨之木明神

 ここに「梨之木明神」があるので、以降は「梨之木明神」で進めます。

梨之木明神

 真砂の一粒のような神社と想像されますが、このサイトで取り上げれば『from八ヶ岳原人』の固定ファンの何人かに一度は読んでもらえるはず、と私の“こだわり”が背中を押しました。

 いつもなら「すずらんの里」駅の駐車場に駐めてトコトコと歩きますが、余りの暑さに、御射山神戸八幡神社の駐車場に乗り入れました。何度目かの来訪になった神沢橋を渡ると、左の民家の庇(ひさし)が格好の日除けとなった石垣にお年寄りがポツンと座っています。挨拶をしてからその隣に座り込み、「なしのきじんじゃ」を切り出しました。直ぐに反応があり、「下の国道脇にある」と教えてくれました。一休みしてから自宅へ帰るというおじいさんに(御射山神戸の生まれと確認してから)「この辺りの景色は、子供の頃はどうでした」と問うと、「道が舗装になったくらいでほとんど変わっていない」と返ってきました。
 予定通り、馬頭観音を左に見ながら国道へ下る道を取りました。幾軒かの人家の間を通ると、今まで忘れていた車の走行音と風圧に包まれました。

梨ノ木明神 左手の斜面を注視しながら茅野市方面に向かいます。直ぐに、凹地と言うか小尾根の間の窪地が現れ、見上げると「大石と御柱」がありました。上には石祠が望めますから、「梨之木明神」に間違いありません。とても神社という規模ではありませんが、御柱が立ち草が刈られていることで、今でも祭祀者が健在であることがわかります。気になる石の大きさですが「巨石ではなく大石」としか言えません。祠の大きさから推定してください。
 実は、2週間前にこの前を歩いていましたが、まったく気がつきませんでした。最近続いている暑さに周囲を見る余裕がなかったのかもしれません。

梨之木明神 杉の枯葉に滑りながら登ってみると、石祠は昭和のものでした。案内板も何もありませんから、間近で見ても「大石の上に祠が一つ」という光景は変わりません。
 祠が国道を見下ろしている写真を撮ってから、再び歩道に立ちました。「色褪せ始めたキツネノカミソリの群落が真夏の終わりを象徴している」とまとめましたが、今現在では、まだ今年の盛夏は終わっていません。

 現代の旅人はこの上部を通る旧街道を歩きますから、その目に触れることはありません。ましてや“ただの国道”など歩く人はいませんから、正(まさ)しく「梨之木明神は、人知れず石の上にも(推定)三百年」となりました。絵図では道が宮川に下り、橋は描かれていませんが御射山社まで続いています。現在も国道の路肩から宮川に下りる斜めの道がありますから、これが、御射山社へ向かう参拝路の一つかもしれません。

 梨之木明神を参拝したことで、再び図書館にある富士見町関連の本を調べましたが、年表にある「梨之木明神」がすべてでした。