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寝神社 茅野市玉川 24.2.23 改

 地元では「御柱街道」と呼ぶ、八ヶ岳の裾野を市街地へ向けて下る一本の道があります。名前からわかるように御柱の曳行路ですが、このほぼ中間に「寝神(ねのかみ)」と名が付いた小さな神社があります。古来から様々な名前で呼ばれていますが、長野県神社庁では「寝神社」と表記しています。ただし、これも「ねのかみしゃ」とも「ねのじんじゃ」とも読めますから、現在でも二つの名前を持っていることになります。

 信州・市民新聞グループ刊『おんばしら 諏訪大社御柱祭のすべて』に、文・宮坂清通とある「御柱が一泊した寝之神」の小項があります。

寝(子)之神(御旅所、または「注連掛・しめかけ」ともいう)
 綱置場から曳き出された御柱が、柳沢、穴山、菊沢の地区を過ぎてここまでくれば、ちょうど日没となり、山出し一日目の行程が終わる。古くから御柱が一夜を過ごすので、ここを「御旅寝(子)之神」という。したがって地区名も子之神といい、近くにある産土の社も、古くは「子之神大神宮」または「御旅寝神宮」とも称していた。(中略)
 以前は子之神の社の神職によって、同社において子之神社祭と各御柱の修祓式が行われたが、昭和七年以降は中止され、現在では諏訪大社の神職がこの子之神注連掛において各御柱の修祓を奉仕している。

諏訪神社上社御柱御旅所 写真は、修祓が行われる子之神注連掛です。地元の子之神区が、「御神燈」を飾り付けるのが慣例となっています。
 御柱の先端がこの下に到達すると、停止して神事が行われます。

諏訪神社上社御柱御旅所 子之神注連掛よりやや下方になりますが、御柱街道沿いに塚状の小山があり「官幣大社諏訪神社上社御柱御旅所」碑が建っています。
 現在は、“旅寝”をしなくなってから久しいので、実質は「御旅所跡」となっています。

寝神社

寝神社参道 八ヶ岳に向かって御柱街道をたどると、左方のこんもりとした森の手前に鳥居が見えます。そこに続く小道が参道とわかると、目に入らなかった幟枠がその途中にあることに気がつかされます。鳥居額の「寝神社」を確認してさらに歩みを進めると、「こんな所に川が」という予想外の展開になりました。小橋を渡り切るとすでに境内に立っていました。

寝神社 その先は川と並行する砂利道の路肩に置かれた石が境ですから、まるで「路傍の神社」という印象を受けます。しかし、社殿を初めて目にした時から、それが諏訪大社上社の宝殿と酷似していることに興味が移っていましたから、スッキリしすぎた景観も気になりません。

寝神社本殿 諏訪大社の宝殿は式年造営で解体されると、諏訪の各地で神社の拝殿などに再利用されます。しかし、正面に立ってみると、間口が狭すぎることに気がつきました。宝殿に似せた造りなのか、狭い社地に合わせてコンパクトに改造したのか、この場ではあれこれ想像することしかできません。
 近づいて見上げると、社殿額は「寝神宮」でした。次に社殿前の御神灯を観察すると、今度は「御旅寝神宮」が出現しました。

寝神社参道 石造物の多さから細長の境内と思っていましたが、それらが直線に設置されていることに気がつきました。
 ところが、その前のスペースが道であることに考えが及ぶと、社殿の向きからも、こちらが表参道と思えてきます。そうなると鳥居のある参道は、御柱の曳行に関わるために作られたことになります。この参道も、鳥居の手前にある幟枠に「天保6年」の文字を見ていましたから、決して新しい道ではありません。地元専用と御柱専用の二つの参道がある可能性が出てきました。

 御神灯と対峙するように、「健御名方命」と彫られた大きな神号碑があります。境内社筆頭とも言えるこの碑の存在とその位置から、寝神社の祭神は諏訪系ではないことが考えられます。「あくまで子之神ということでしょう」と書いてはみましたが、子之神がどういうものか私にはよくわかっていません。たまたま出会った人に神社名を尋ねると、「ねのがみしゃ・ねのがみみや」でした。
 帰りは上写真の道を選びました。彼方は白飛びしていますが、八ヶ岳連峰が横一直線に広がっています。御柱との絡みから、社殿は御小屋山に向いているのではないかと考えましたが、ややズレた“権現岳・編笠山ライン”でした。

青木の森

 長野県神社庁のサイトでは、寝神社の住所を「茅野市玉川字青木森」と表記しています。御柱の「川越し」が行われる宮川の堤防上に「青木の森神社」があるので、これは誤記ではないかと疑っていました。それが、復路に渡った橋の銘板から「川久保川・あおきばし」と確認でき、一件落着となりました。

寝神と御旅寝神

 明治期の岩本尚賢稿『諏訪上下両社祭祀の大畧 附上下両社御柱祭古今』から、関係箇所のみを抜粋して転載しました。当て字が混在していますが原文のままとしました。原典は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

 三月寅申日、前曳と唱えて御子屋岳より御柱八本御旅寝神に引き翌日安国寺村御柱置場へ引き揃え注連を曳く、

往昔は前に記す如し、明治維新の大畧(略)をあらわすに

 同日御柱曳立三十日前御柱前曳前日御小屋岳より御柱八本を曳出し玉川村寝神と云處(所)に至る、後日同處より宮川村に至り御柱置場に留め四方に注連を引置、

往昔」を探したら、延宝7年(1679)の『社例記』にありました。

三月寅申日御旅寝神(曳)、翌日出神川(※宮川)(曳)

 これらの文献からは「寝神は神社名ではなく地名・場所」とも理解できます。

寝神社をめぐる神之原村と子之神新田村

 裏を取るつもりで茅野市『茅野市史 中巻』を開いたら、興味を引く史実に目が留まりました。しかし、当事者である「神之原と子之神」の住民(氏子)以外の、今これを閲覧している大多数の人にとっては面白くも何ともないかもしれません。私も利害関係にありませんが、たまたま現地を訪れて社地やその周辺の地勢を知っていたので、つい引き込まれてしまいました。なお、何れの引用文も関係する箇所の抜粋です。

古村と新田

子之神新田 青木の森に古くから「寝(ね)の神(かみ)社」があった。これは諏訪明神を分祀したもので、御柱山出しの第一日に御柱はここで一夜泊まったから「御旅寝の神」といった。正保四年に訳があって寝の神社は御小屋の宮と向き合うようになった。(中略) 嘉永七年(1854)十一月七日に、神之原村が寝の神社の社木を伐り倒して子之神新田と争論になった。神之原村はこのお宮は両村の「相合の宮」だと主張した。結果は和談となって、神之原村は木を返し、伐ったのは心得違いであったという一札を子之神新田へ出した。

「古老の所伝にも七社の中御社宮司社を除く六社は二社ずつ神祠が向かい合っているとされているが、その意味は明らかでない」

諏訪史談会『諏訪史蹟要項・茅野町玉川篇』

 正保四年(1647)は、子之神新田村が開村した翌年です。新たに“出現した”新田村に対して、古村である神之原村は「山の神として信仰してきた寝神社の川向こうが新田村」であることに(将来起こりうる)危機感を持ったのでしょう。村内の各神社を「ペアで相向きにさせる整備」をすることで「神之原村の寝神社」を既成事実にした、のが「訳」と考えてみました。もちろん、新田が開発される前は諏訪神社上社の「神野」ですから、寝神社周辺の境が曖昧であったことが背景にあります。

庶民の宗教と信仰

玉川地区の産土社 子之神新田の産土社は青木の森に鎮座する寝神社(ねのじんじゃ)で、享保の『手元絵図』には「子ノ神大明神宮」とあり横に「宮ハ上(神)の原より書上※1」とつけ加えられているが、神之原ではこの神社について、古来より神之原村の氏神六社の一つ「青木の山之神※2」と主張し、子之神新田との間で所有権を争っていた。しかし、文政七年(1824)郡奉行の裁決で子之神新田の産土社に決着をみた。

※1「その意味は、この神社は神之原村の図に書き上げて出すということである」

※2「山ノ神祝 旧正月寅(申)日をえらんで山作一同青木の山ノ神に詣でて当御柱の無事を祈る」

諏訪史談会『諏訪史蹟要項・茅野町玉川篇』

 『諏訪藩主手元絵図』では川久保川が村境です。寝神社は、絵図上では神之原村に属することが明白ですから、所有権が争論になること自体があり得ません。両村の「友好関係(暗黙の了解)」が250年を経過する中で変化し、たまりかねた神之原村が決着をつけるために“仕掛けた”ということでしょうか。文献上は「神之原村が謝罪」ということになっていますが、神之原村に有利な裏取引の結果、子之神新田村に対して“鎮守社としての使用権”を認めたと考えてみました。もしかしたら、「産土社か山ノ神社か」の認識の違いが争点だったのかもしれません。
 これで、鳥居のある参道が子之神新田村・石神仏が並んだ参道が神之原村と使い分けていたことがわかりました(多分)。