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塩沢の三峯社(お仮屋) 茅野市米沢

 瀬神社から旧街道を北山方面に向かうと、米沢(旧塩沢村)も終わりと思われる場所に、「戸長役場跡」とある“看板”が立っています。清水院(せいすいいん)の境内ですが、今は無住の本堂があるのみです。

 (清水院の)庫裏は、明治十八年(一八八五)、米沢村北山村連合戸長役場の制度発足によりその役場となり、同二十二年四月の市町村制施行まで使用された。
米澤村村史編纂委員会『米澤村村誌』

三峯社のお仮屋

三峯社のお仮屋

 山手に目をやると、木立の間から何かのワラ囲いが見えます(印)。こういったものにすぐ反応してしまう私は、過去の類例から、三峯社の「お仮屋」と確信しました。
 右に半分だけ写っている蚕影山神社を見て、ドリルの跡も生々しい岩盤の崖を回り込むと、山の斜面に金毘羅神社がありました。この辺り一面にはおびただしい数の石神仏が見られます。

三峯外三社 山手の小道を清水院に戻る方向に伝うと、手造りの鳥居が現れました。ささやかな鳥居額に「三峯外三社」と読めるので、“ワラ囲い”が三峯社であることが確定しました。裏には「平成二十二年十一月二十一日第八組九組」とあるので、隣組(常会)で管理していることがわかります。平成22年は御柱年なので、それに合わせて鳥居を建て替えたのでしょう。

三峯社と大日如来 灯籠と石祠や木祠が並び、最奥にワラで葺いた三峯社がありました。見ての通りの「仮屋」で、名称も(地元での呼称はわかりませんが)「お仮屋」と言います。三峯社では、これが由緒正しい“社殿”となります。足場がわるいので三峯社単独の写真が撮れず、神仏混淆という写真になりました。
 ここは三峯社のページですが、右側にある石塔の碑文が“解読”できたので紹介することにしました。右から「寛文九年 塩沢村・大日如来 順海入道・己酉三月三十日 敬白」と刻まれています。寛文九年は1669年なので、塩沢村の歴史の古さがわかります。因みに、「寛文」は徳川家綱の世です。諏訪では「万治の石仏」の次の元号と言ったほうがわかりやすいとしましたが、感覚的にはどちらもピンと来ません。

お仮屋の内部 前面にワラを切り取った小窓が開いているので、失礼して覗いてみました。ワラ囲いが新しいので三峯講はまだ健在としていましたが、「御眷属拝借之牘」は見当たらず、石が重ねてあるだけでした。すでに講は解散したと判断し、迷うことなく内部の写真を公開しました。
 特殊な形態を持つ三峯社の祠ですが、それに目を留める人はまだいます。その一人である私は、真に「講の実体がなくなっても、お仮屋を毎年更新している塩沢の人は偉い」と感動してしまいました。部外者の要望など耳に入るはずはありませんが、葺き替えだけでも永久に続けて欲しいと願ってしまいました。

三峯講

 塩沢の集落内には、今でも軒下の梁などに小さな木箱のようなものが取り付けてある家があります。スリットから「火防盗賊除」の文字が見えますから、三峯社の御札を納めていることがわかります。塩沢には講が複数あり、今でも代参を送っている(または郵送で取り寄せている)」講があるのかもしれません。

 祭神は伊那那岐命・伊邪那美命で、火防盗賊除の民間信仰と結び関東一円の三峯信仰の中心である。三峯神社の火防盗賊除のお札は、現在も土蔵の戸などに貼られてあるのを見かける。
『米澤村村誌』〔講と代参〕

三峯社の造営事情

 三峯社の参拝時に、同行者の知人がその場で地元の人に連絡を取って聞き取り調査をしてくれました。概要はメモに取ったのですが、後日詳細(正確)なメールを頂いたので紹介します。

 三峰社の件ですが、見ての通り代参はすでに行われておらず例祭等もありません。葺き替えだけは毎年行いますが、日付が決まっておらず4月の出払いの時に行います。近くに住む者の中で村の役についていない者(だいたい年配者)を2名選任して行い、作業者は1年で変わったり数年やったりとまちまちのようです。(村の役はダブってやることはないので葺き替え役が村の役の一つみたいな扱いですかね)

 今回の三峯社参拝は「SUWA-ANIMISM/スワニミズム」のメンバーと一緒でしたが、文面は単独の参拝記として書きました。なお、「三峯社の基礎知識」は以下のリンクを参照して下さい。


‖サイト内リンク‖ 「三峯神社のお仮屋と御眷属拝借之牘」