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尾片瀬神社と「とちの木」 富士見町とちの木 25.8.15

 ここに登場する「」は、草冠に子で「とち」と読みます。そうなんですが、…私は、口に出す出さないの区別なく(どうしても)「イモ」と読んでしまいます。

尾片瀬神社

富士見町とちの木「尾片瀬神社」 諏訪郡富士見町に尾片瀬神社があります。旧甲州街道沿いに鎮座しているので、街道歩きを趣味にしている方は記憶に残っているかもしれません。
 この神社を鎮守とするのが、これも旧となる「之木新田村」です。現在は、(誰も読めないので)地図や標識では「とちの木」と表示されています。
尾片瀬神社本殿 灯籠に「寛政十一己未年(1799)十一月吉日」を確認してから、拝殿の前に立ちました。
 格子の間から本殿が見えますが、屋根の前に梁があるので、その全体像はつかめません。
 参拝後に本殿の背後に回ると、サルが一頭、斜面の上方へ逃げていくのが見えました。サルから見れば私は闖入者そのものですから、お盆前に刈られた草丈では隠れる場所がなかったのでしょう。

形瀬または片瀬

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』にある『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』から、尾片瀬神社の由来と思われる「片瀬・形瀬」を拾ってみました。

一、元和六年 形瀬村出る とち之木新田(昔…後述)

一、正保二年(1645) 元大形瀬村 木戸口新田 今先能村瀬沢村之枝郷也(後略)

一、形瀬村当時無之(これなき)候 形瀬大明神(ばかり)釜無川端縁にて、先能村尻を廻り瀬を越日向に屋敷跡有之(これあり)、何年之頃哉不分明(ふぶんみょう)に候、又元和六(1620)ノ木村へ引(ひけ)るといえども木戸口新田成る、

 バラバラの項目を順不同で並べたような文に見えます。何回か読んでみましたが、複雑な変遷があったことだけがわかっただけで、よく理解できないままで終わりました。

 ここまで書いてきた「」ですが、ブラウザの環境によっては文字化けになっている可能性があります。画像で表すと「とち」なので、置き換えて読んで下さい。

 次に、諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』にある「之木村」を、誰もが読めるように付箋を付けて転載しました。

諏訪藩主手元絵図「とちの木」

 右ページの赤枠が、絵図では「木新田」と表記がある集落です。ここでは村外に当たる左ページに、「大片瀬古屋敷」と「片瀬大明神」が書いてあります。
 両書を突き合わせると、この『絵図』が作られた享保18年(1733)頃は、「大片瀬村から移住した人々が之木村を開発したが、廃村になった大片瀬にはまだ片瀬大明神の祠が残っている」となります。この年以降に片瀬大明神を現在地に遷し、(度重なる災害に)大を「尾」に替えて之木村の鎮守社としたのでしょうか。
 『絵図』にある「大片瀬」ですが、富士見町の住人ではありませんから、およその場所でも挙げることができません。ようやく見つけた『富士見町史』でしたが、推定地の扱いでした。

片瀬 場所は不明だが、釜無川から乙貝川が分岐する地点の西側であるという伝えがある。

大片瀬 片瀬の北方か。

『富士見町史 上巻資料編』の補注

 『明和九年(1772)十月 木新田村役願書写』とある、之木区所蔵文書です。

 乍恐(おそれながら)奉願上口上書之御事

一、当新田之儀者(は)、先年片瀬(と)申所住所仕候(つかまつりそうろう)、其節片瀬より(より)壱里程上ニ今なき(薙※地滑り・山崩れ)申なぎ御座候、右なぎくみ候節、釜無川(かまなしがわ)七日七夜水堤り、家屋敷共ニ押流され、其後大片瀬申所引越罷在(まかりあり)候由申伝候、

一、新田場御尋神社等御改之節、御書上ニ仕候得共(そうらえども)、年数相知不申候、然共(しかれども)証拠ニ者、片瀬大明神申氏神御座候、(中略) 右大片瀬之義者、用水不自由ニ御座候故、大坂陣(大阪の陣)より当処江引越申候由言伝申候、

『富士見町史 上巻資料編』

「片瀬→大片瀬→木」と、村の変遷がわかります。

尾片瀬

 『明治四年正月 木村村役願書』の名がある同区の文書です。

一、私共村方之儀者、蒙御重情ヲ(重ねて御情けを蒙り?)、往古尾片瀬村ニ住居仕、産神尾片瀬大明神社大山祇命奉勧請し罷有候、然ニ釜無山度々大荒致し候ニ付、住居難仕候故、元和二年ニ御上様以御慈悲木平申処江引越、二社奉勧請、御百姓永続仕、難有仕合奉存候、何卒此度右二社御書載被下置候様、(以下略)

『富士見町史 上巻資料編』

 「私どもは尾形瀬村に住んでいたが、元和(1616)に木平へ引っ越した。百姓を続けられたのも(尾片瀬村から勧請した)尾片瀬大明神と大山祇命のおかげなので、この二社を登録したい」と読めます。明治の文書では、地元では「尾」片瀬と呼んでいた(書いた)ことになります。
 何回か読み直す中で、省略した村役は、年寄小林久兵衛を筆頭にすべて小林性を名乗っていることに気が付きました。一族の長が、身内で呼び習わしていた“尾”片瀬大明神(または、当て字)で登録したために、以降は「尾片瀬神社」として一般に広まったことが見えてきました。
 そのためか、村役が「尾片瀬神社」で登録した『神社明細帳』を引き継いだ長野県神社庁は「尾片瀬神社」。『富士見町史』と『富士見村誌』では「片瀬神社」と表記しています。残念ながら、公私を含めた本には、「尾と大の違い」についての記述はまったくありません。

富士見町とちの木「大山祇神社」 上記の文書で、尾片瀬神社の鳥居脇にある神社(左写真)は境内社ではなく、尾片瀬神社とは別個の山之神(大山祇神社)と理解できました。
 石祠ながら灯籠と玉垣があるので別格と見ていましたが、正にその通りとなりました。

祭神「瀬織津姫命」

 細川隼人著『富士見村誌』から転載しました。昭和36年の本とあって読みやすいのですが、私が求める「“尾”片瀬」の説明はありません。

片瀬(形瀬)神社 祭神は瀬織津姫命である。現在小林性を名のる木区民の祖先は、往古釜無渓谷の奥の、白川が釜無川に合流するの地に住っていたが、ナギ(地すべり・山崩れ)が引き危険であったため天正の頃、形瀬に移った。しかしここも亦(又)ナギが引き危険であったので、元和二年に現在の木区へ移った。その際尾片瀬より移し祀った社である。例祭は九月十三日となっている。
 右の外、山の神・金毘羅社・御岳様・道祖神等がある。

 ここでは、祭神を「瀬織津姫命」としています。

下馬方瀬明神

 嘉禎3年の『諸神勧請段』があります。上下の諏訪大明神から始まり、伊勢太神宮を初め全国の神を勧請する祝詞です。前が山之神・次が治部之神という順番で「下馬方瀬明神」が登場します。

  下馬方瀬明神
ゲバカタノ キタノハヤシノスズムシワ
 ス々ムシワ チウチウコエワツネニタイセズ
カタセノ明神 シュウシウレシトオウスラン
 オウスラン ユキタタイマノハナノキヨメヨ
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

一部に意味不明がありますが、書き直してみました。

下馬かた(方)の北の林の鈴虫は、鈴虫は、
 チウチウ声は(八千代の声で)常に絶えせず、
方瀬の明神 終始嬉しと仰すらん、仰すらん、
  幸(?)只今の花の浄めよ、
チウチウと八千代の二種類がある。

 「下馬方瀬」でいいのか、下馬(神)と方瀬(神)とに分けて読むのかが判断できません。富士見町の御射山神戸では「片瀬明神社の前では、如何なる人でも馬から降りない(下馬しない)と祟りがある」という伝承があります。御射山神戸の片瀬明神と尾片瀬大明神を結びつけるには根拠が薄いのですが、片瀬明神の存在自体が極めて少ない中では、今の所はこれに対応させるしかありません。
 方瀬明神は諏訪古来の神ですから、祭神を「瀬織津姫命」とするのは難しく思えます。ただし、神社明細帳に登録してあれば“そう”するのも間違いではないかもしれません。私は、明治期の調査書に、『記紀』に登場する(瀬の字が付く)瀬織津姫を祭神として記入したという考えなので、尾片瀬神社の祭神を瀬織津姫命とするには抵抗があります。

片瀬村址

片瀬村址 昭和36年発行とある前出の『富士見村誌』に、「富士見村図」が折り込んであります。ここに、「片瀬村址」と名所旧跡扱いで書かれているのを見つけました。現在の地図を参照すると、鳥居の凡例から「先能」集落の対岸という場所でした。
 『Google』の衛星写真では、若干の田畑が北側に広がっているのが確認できますが、どこまでが片瀬村だったのかは想像もできません。

之木」の由来

 前出の『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』では(昔…後述)とした部分をここに挙げました。

昔、之木之れ有り。其の下に二十歳(はたち)斗りと見えし、女一人住居致し。如何なる者の子哉、一子を設け、夫(そ)れより草分にてと書く。此故哉(このゆえかな)之木と云う。

富士見町とちの木「とちの木塚」 冒頭に挙げた『手元絵図』の「木新田」をルーペで見ると、「木ノ跡」がありました。「石塚あり」と説明があるので現在も残っている可能性があります。
 『年代記』ではたった三行の言い伝えに登場する“ヒロイン”ですが、小説家なら一冊の本に仕立て上げることができるかもしれません。私も興味津々ですから、さっそく現地調査と意気込みました。しかし、“絵図”では、地図のどこが相当するのか皆目見当が付きません。(旧)村名の発祥地ですから、現地には“案内板”が設置されているような気がしますが…。
 前述の『長野県富士見町史上巻』の〔之木新田〕には、『史蹟踏査要項』を引用した一文があります。

一説に、娘はここで茶店を開いており、子を産んだので、橡の字をあらための木の名が生まれたとも伝わる。

 ここでは“肝心の説明”が抜けているように思えますが、ピンと来ました。似た様な字が浮かんだからです。ここまでお付き合いくださった方はわかったでしょうか。そう、「孕(はらむ)」です。娘に相手の名を訊いても(何かの事情で)「橡の子供」と言い張ったのでしょう。そこで、「橡・孕」から「橡乃子」で、橡は植物だから草冠とし、妊娠させる不思議な橡として造語の「」と書いたものが広まったと考えてみました。

」は「」の誤字(読み誤り)

 パソコン・OSの違いで、表示しない場合があります。

 試しに「とち」を変換してみたら、「芧(芧)」を表示しました。JIS第4水準なので明瞭ではありませんが、拡大するとです。読みは「ジョ、チョ、ショ、ヨ、とちのき、どんぐり、みくり」でした。

HP『文字拡大』http://moji.tekkai.com/zoom/%E8%8A%A7/page.html

 一方、『一太郎』の手書き文字認識で「」を書いたら、候補の一つに「芓(芓)」を表示しました。こちらもJIS第4水準ですが、読みは「し・じ」です。
 「この人はよっぽど暇なんだなー」と取られても仕方がない“変換遊び”から、当時でも橡の異体字として使われていた「」が毛筆のくずし字であったために、明治以降の人が「予を子」と見た(読んだ)ことがわかりました。ところが、これでは辞書をどうひっくり返しても「とち」とは読めません。そのために、(とち)と読み仮名を並記する方法で通してきたのでしょう。しかし、当て字とも違う用法に、結局はどうにもならずに「とち」とカナで表記するようになったのでしょう。
 これを根拠に、「とちの木」の住民だけでも「」を使って欲しいと思うのですが、読めない・書けない・表示しない、または誤字と指摘されそうな字では、…無理でしょうか。

 最後に(老婆心ながら)、を「ち・かや」と読んではいけない、と一筆添えました。「かや」は茅と書きます。

 以下はここだけの余談ですが、(茅野市)安国寺区誌作成委員会『安国寺区誌』では、〔安国寺村の遺跡遺物〕にある「久保のお不動様」に「とち」と振り仮名が付いていました。