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柴宮・東堀正八幡宮 岡谷市長地 19.3.5

柴宮 以前より、岡谷市の知人がたびたび口にする「柴宮」が気になっていました。地図で探すと、正式名称は「東堀正八幡宮」でした。私は、まだ見ぬうちから「柴宮」を唱えていましたから、急に東堀正八幡宮といわれてもピンとこない状態がしばらくの間続きました。

東堀正八幡宮参拝

 鳥居は見えますが駐車場が見当たりません。境内に沿った横道に入ると別の鳥居があり、その隣が「柴宮館」です。とがめられたときの言い訳を用意しながらガラガラの駐車場に乗り入れると、幸いにも「館」は公民館でした。
 駐車場から直接行けそうなので、柴宮館に沿って杜の中に入りました。いきなり舞屋の横に出たので、「裏から来たのに正面とはこれ如何に」でした。そのまま拝殿に向かうと、左右に並ぶ小社から祠・神号碑の全てに御柱が建っています。諏訪では決して珍しくはありませんが、馴れた私でもハリネズミのような景観に圧倒されました。
 軽トラが拝殿の前に横付けし、作業衣姿の男性が賽銭箱の周囲を「しげしげ」と眺め始めました。白昼で、しかも目撃者ともなる私の前での賽銭泥棒はあり得ませんが、一瞬それを思ってしまいました。その不審さも、太いケーブルを延ばすのを見て荷台の機械が溶接機と気が付き、作業が始まれば、…賽銭箱の修理でした。

東堀正八幡宮拝殿

 舞屋は岡谷市指定の文化財でした。「諏訪では珍しい舞屋の丸柱」とあるので、それを前景に入れた拝殿の写真を載せました。左右が片拝殿ですから、中央は幣殿になるのでしょうか。棟札によると「明和三年、棟梁山田清五良信金、彫物師伊藤儀左衛門等により再建された」とあります。本殿を含めた社殿には、至るところに「十六弁菊紋章」が見られました。

東堀正八幡宮本殿 写真では疎林のように見えますが、境内はかなり暗いので露出が心配でした。その中で撮れたメリハリが効いた本殿の写真ですが、コントラストが強すぎて陰の部分が潰れてしまいました。
 境内を一回りしました。再び拝殿を正面にすると、右奥に鳥居があり脇には「水屋」もあります。こうなるとそれが一ノ鳥居で、右からの道が表参道になるのでしょうか。それとは別に、社殿の長軸とは斜めに交差する参道もあります。本殿の横から、境内の裏に当たるその先まで歩くと、そこにも鳥居があり、車が行き交う大通り(県道)が見えました。

東堀正八幡宮「案内図」

 (私の)文字の説明ではわかりにくいことや、この神社の変遷もわかりそうなので境内にある案内図を載せました。これは概念図なので、距離は正しくありませんが参道が不規則なのは一目でわかります。諏訪大社本宮もそうですから、これをもって「おかしい」とは言えません。ただ、スッキリしないものは感じます。
 冒頭でも書きましたが、東堀正八幡宮の氏子は「神仏を問わない」どころか、[宗良親王御舊蹟地]とある「記念碑」にまで御柱を建てています。乱立とも言えそうな柴宮の境内です。諏訪圏外の人が迷い込めば、ギョッとするような光景を目にすることになるでしょう。これは柴宮の伝統ですから、私には「ここの氏子は諏訪で一番御柱が好きなのだろう」としか言えません。

柴宮「道祖神」 御柱が特に目立つのが道祖神です。旧村の合併と神社合併が進んだときに、居場所がなくなった石神をここに集めたのでしょう。「案内図」では、道祖神の列が斜めに描かれています。色分けした「幸の神」が一基あるのがわかるでしょうか。文字で彫られた「幸(塞)の神」は諏訪でも二基だけしかないそうです。
 御柱の多さなど特徴ある東堀正八幡宮でしたが、本日はこれにて帰ることにしました。蛇足ながら、祠の数から御柱は140本はあるようです。


宗良親王と東堀正八幡宮(柴宮) 21.3.22

 東堀正八幡宮をサイトの一ページに加えることになり、その詳細を調べ始めました。以下は、諏訪史談会編『復刻諏訪史蹟要項』から原文をそのまま紹介したものです。「柴宮」と「東堀・西堀」の由来や「宗良親王」との関わり、「大門(参道のズレ)」などが書かれていますから、柴宮の大凡(おおよそ)が理解できるでしょうか。

芝宮(東堀正八幡宮考)

芝宮の名義 芝をもってしつらえたという意で、仮の御座所の義にとれるであろうか。

一、当時諏訪の祝をはじめ土人等が誠款の心を以て宮(宗良親王)を奉じ、やがて彼所に仮の御座処をしつらえて据え奉った宮の称号が今の世まで伝わっているのであろう。(明治二十二年、如蘭社詰所載岩本正方氏の説)

二、往古、御船祭りの神事に使用する柴舟の柴は凡てこの宮の紅葉の葉を以てしつらえたもので、この宮を柴宮というと。今はこの事はないが、明治の初年迄は、一枝二枝ばかりを柴宮から採る習慣があったという。(伝説)

柴宮の位置

一、(略)

二、柴宮の大門は南に向かうこと。柴宮の大門は古と南に向かって、土居を築き、堀を堀り、かたの如く営まれたものであろう。大門の並木数本、今も尚残っている。明治の初年上諏訪区裁判所用材に伐採以前までは並木の形跡が顕然としていたという。(口碑)

柴宮の祭神

一、正八幡大神(現今)

二、実は宗良親王御霊を斉き奉ったものであろう。永禄、天正の頃、武田氏の所領となってから、諏訪八幡の神社以外由緒の明瞭でない神社は廃止の運にあい、殊に織田氏乱入の折は八幡社以外神社仏閣の灰燼にされたものが非常に多かった。この時柴宮も八幡大神を祭神としてこの災を免れ、爾来年所を経ると共に真の祭神は忘れられるに至ったものという。

社殿建築と由緒 錦旗節刀の彫刻、宗良親王征夷大将軍に関係ありという。

一、紫に十六辨菊桐紋章を許されたことがある。

二、本殿御扉に箭及び旗を彫刻して来たこと。

蟇股の彫刻

 本殿の彫刻を撮るために、再度東堀正八幡宮へ行ってきました。本殿の扉は格子戸なので彫刻はありませんが、梁の蟇股に旗らしきものが見えました。本殿左右の貫にも「旗」があったので撮ってみました。
東堀正八幡宮「本殿蟇股」 自宅で見ると、初めは何の彫刻かわかりませんでした。ようやく下部が割れた旗が翻っている様子が見えてきました。一本一本その状態を変えた凝ったものでした。箭(矢)はわかりません。縦の「スジ」がそれを表しているのでしょうか。
柴宮本殿の蟇股 左は、本殿正面に向かって右側の蟇股で、旗に「日・月」や「菊」が見えます。背後の木は松のようですが私には判断できません。
東堀正八幡宮本殿の蟇股 こちらは、三ツ割の旗裾がなびいています。日・月の下は(菊と桐から)「桐」のように見える、と言う程度です。花は梅のようですが(お雛様から連想した)橘としました。「白」がわずかに残っているので、かつては彩色されていたのでしょう。

十六辨菊桐紋

柴宮 東堀正八幡宮「菊の定紋幕」 今日の東堀正八幡宮は、(後で知った)祈年祭でした。水屋横には白布で覆った受付の机があり、背後の柴宮館厨房からは準備の声や物音が聞こえていました。
 資料には「紫に十六辨菊桐紋章を許された」とありますが、「拝殿」前を飾っている紫の定紋幕がそれなのでしょうか。そういえば、諏訪大社上社では「白地」の幕です。それだけ朝廷との結びつきが深いということでしょう。

大門

 最後は「大門」です。境内から、斜めになった参道に沿って南鳥居をくぐると、直交した道を挟んで民家が正面に立ちふさがっていました。境外の道に沿って本殿─神楽殿の延長線の位置に立つと、鳥居から右へ約5mずれていました。「旧参道の並木が数本残っている」とありましたが確認するのを忘れました。
 最後の最後ですが、「宗良親王」については、“ことしげきにより”今のところ紹介する予定はありません。


 岡谷市東堀区が刊行した『東堀区誌』があります。その中に「芝宮官林事件」がありました。明治初期に、芝宮社有地が突然国有地になり、それを取り戻すために東堀の人々が多大な犠牲を払ったというものです。文中に「…これらの人々は、芝宮の森にまつわる苦難の歴史を知るよしもない」とありますが、私もその仲間でした。