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松平忠輝公神社 諏訪市高島 19.2.17

松平忠輝神社

 諏訪市役所の駐車場奥に祠があるのに気がつきました。御柱に掛かっている札の滲んだ墨痕を読んでみると、何と「松平忠輝」とあります。「あの徳川家康の六男・松平忠輝」と瞬時に頭に浮かんだのは、私が得意とする歴史の知識が閃かせたわけではありません。手前にあった「高島城南の丸跡」の案内板を読んでいたからです。
 一部不鮮明で読み飛ばした部分もありましたが、その1分後とあって大凡(おおよそ)は覚えていました。写真には見苦しい進入禁止の柵とトラロープが写っていますが、参道があり、直前には小川(側溝)を渡る小橋もあります。

松平忠輝公神社
松平忠輝公神社近影(25.6.17)

 松平忠輝公は、時の最高権力者の息子とはいえ流人の身分です。また、地元諏訪に貢献したという話も聞いていません。諏訪の地に無念の生涯を終えたのを哀れんでの供養塔なら理解できますが、こうして“祭り上げられて”いる意図が分かりません。
 忠輝公については、ネット検索だけでも、興味を引く事柄を幾つも読むことができます。しかし、ここでは「諏訪の神社」がタイトルなので、諏訪市教育委員会の「案内」のみとしました。

高島城南の丸跡
 高島城本丸のそと、南方にある一部を南の丸という。約四〇ア−ルの地で、高島藩が、江戸幕府の流人を預かったところである。
 周囲は堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの別天地であり、松平上総介忠輝お預かりの時に作られたものである。忠輝は家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大阪夏の陣直後の元和元年(1605)家康から勘当を申し渡され、翌年、幕府から藩もとりつぶされ、正室五郎八姫(伊達政宗の長女)とも離別、飛騨高山から寛永三年(1626)四月二四日、諏訪に流されてきて天和三年(1683)七月三日、九三歳の生涯をここで閉じ、貞松院に葬られた。改易の理由は乱暴な振舞とも、大久保長安等と組んで天下取りを企てたか、とも伝えられているが、忠輝は進歩的な開国思想の持ち主であった。
 忠輝の南の丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡る不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだともいう。
 つぎに、吉良義周(吉良上総介義央の養嗣子)が三年間、野沢半平(旗本野沢伴次郎長男)が一九年間、水野美濃守(旗本)が一年間ここにおかれた。お預人がなくなってからは、薬草でも作ったものか「お茶園」といった。今の諏訪市武道館はその隅の地にある。

 58年間というと、単純計算では9回の御柱年を迎えたことになります。幽閉といっても(私には)具体的にはどのようなものであったのかはわかりませんが、忠輝公が諏訪一円で盛り上がっている御柱祭を見ることはあったのでしょうか。

 諏訪史談会『復刻諏訪史蹟要項』の〔松平忠輝と田辺の縁由〕で、忠輝公の暮らしぶりの一端が書かれていました。

 諏訪藩では表面監視を厳に実は適当に扱っていたので、忠輝はひそかに裏口の舟番所あたりから微行して出歩いた。当時、文出(ふみで)から田辺(たんべ)にかけてヨシ・マコモの生い茂っていた鴨池のほとりには魚鳥が多く棲息していた。そこへの遊びは忠輝にとってよい慰みであった。忠輝は、始め伊達政宗の娘と婚していたが流謫(るたく)により別れてしまった。しかし、鴨池の狩猟が取り持つ縁により、この地に深い縁をつなぐに至った。忠輝がよく立ち寄った藩士伊藤弥次右ェ門の家には美しい娘のお須磨がいて心を引き、やがて忠輝の侍妾となり男子を産んだ。長じて村井九太夫と言って田辺村に住んだ。(以上抜粋)

 ここで初めて目にした「微行(びこう)」ですが、これは誤字に違いないと思いました。念のために調べると、「おしのびの漢語的表現で、身分や地位のある人が、他に知られないようにこっそりと出歩くこと」とあります。昭和34年発刊ですから、当時は一般的ではないにしろ、かなりの人が読め、またその意味を知っていたのでしょう。田辺村は、現・諏訪大社のある神宮寺村の隣です。
 松平忠輝公も6年に一回の「御柱祭」を心待ちにし、「群衆の中に紛れ込んで御柱を曳いた」としました。