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北斗神社と泰一社

「奉献泰一社・物部安貞」 19.3.10

 厳冬期のキリリと締まった空気は、今や過去のものとなりました。しかし、大地の彩度は未だ変わらず、北斗神社も寒々しい姿を今に留めています。

北斗神社
“空中浮揚”して撮った北斗神社境内

 北斗神社の右にある小祠が「天社(天神社)」で、左隣が秋葉・三峯・金毘羅を祀る「三社」です。左端が、問題の「奉献泰一社・物部安貞」とある灯籠です。この写真には写っていませんが、右には蚕玉社他を祀った御堂があります。

北斗神社境内にある「守屋社」
「祭主 守屋氏」

 「天社」の身舎(もや)側面には「守屋氏」と刻まれています。また、倒壊して屋根が見当たらない「守屋神社」(左写真)の小祠も「祭主・守屋氏」と確認できます。
 問題にしている灯籠の左側面には、「願主」の下に「當村 赤羽長右衛門・高遠 守屋甚兵衛」の名があるので、様々な事物が現す「物部」と「守屋」から、物部安貞のバックには「物部守屋」を祀る人々がいたと考えてしまうのは自然な流れでしょう。

物部守屋神社がある旧片倉村の石工。

太一社

 地元神宮寺の郷土史研究家「たくろ」さんから、メールで教示を頂きました。

北斗社の「安貞」は、最後の禰宜太夫の一代前の人です。「泰一」は「太一」で北極星のことだと思います。

北斗神社と「泰一社」 さっそく「太一社」をネットで検索すると、愛知県岩倉市の神明太一社が多く表示します。しかし、祭りの紹介のみで、「なぜ太一社なのか」がわかりません。ならば「“太一 北斗”でどうだ」と再検索すると、「北斗の拳」を始め、伊勢神宮から道教までの、私から見ると全く別世界のサイトが羅列しました。
 それらを拾い読みをする中で、「太一(たいいつ)=北極星=天照大神」「北斗(七星)は太一の周囲を回る」に注目しました。
 これは後の話ですが、テレビで伊勢神宮「神嘗祭」の様子を放映していました。その中の「初穂曳」では、新米の俵を乗せた荷車(山車)の車輪に、大きく「太一」と書かれています。提灯にも「太一」「太一」「太一」でした。

祢宜太夫・物部安貞

 「物部安貞」は、諏訪神社上社「五官」の一つ祢宜太夫とわかりました。「語り継ぎ神宮寺の民俗」刊行委員会編『語り継ぎ神宮寺・民俗編』に、「片山北斗神社の改修」があります。

 往年大祝の五官の権勢が盛んだった江戸時代には長沢の片山は、東半分を「矢島権祝」、西半分を「祢宜太夫守屋」が宰領した。(中略) さてこの片山西半分の頂上付近に北斗神社の社殿が真北を指して建つ。守護神は「天御中主命」で寿命の神様として昔から近郷の篤い信仰を集めている。この境内は守屋祢宜太夫の宰配地であったから、文政八年(1825)北斗神社を勧請した。側の燈籠に物部安貞の刻印があって北斗神社由来の鍵となっている。(後略)

 地元の研究者も、キーワードが「物部安貞」にあるとまではわかっているようですが、まだ北斗神社の鍵穴に合わせられないでいるようです。
 細野正夫・今井広亀著 『中洲村史』の〔村を行く〕から、〈祢宜太夫邸址〉の一部を転載しました。

 祢宜太夫は五官のうち神長官に次ぐ地位の職で、遠祖は建御名方命の御子神八杵命とつたえている。はじめ小出氏といっており、一族栄えてその勢いは神長と争うまでになり、文明十六年十二月六日の「大祝職位事書」には満実と大祝の職位で争ったことが見えている。天文十一年の乱に祢宜満清は高遠信濃守に組して滅亡し、以後は神長官の支配に属し、その子孫が継いで明治維新まで続き、終わりは祢宜太夫守屋要人であった。

分家が「守屋」

 高部歴史編纂委員会『高部の文化財』の〔祢宜太夫の邸跡〕に

(前略) 祢宜太夫はその後、信玄が名づけ親になった守屋信実(神長・守矢頼実の子神平)が継ぎ、信実は後に神長官になっているようである。彼が祢宜職を継いだ時、邸は長沢の北斗神社下、分かされの北側へ移ったと思われるが、今はその痕跡もなく、普通の民家が建っているだけである。
 祢宜太夫守屋家は維新まで続き、最後の職は守屋要人であった。ちなみに、守屋神長家は本家だけ守矢姓を名のったのである。それが乱れたのは、明治以降である。

とあるのを見つけました。諏訪大社の研究者なら周知の事実でしょうが、ここに来て、守矢氏の分家を「守屋」氏としたことを知りました。伊那市高遠町の「物部守屋神社」とは関係ありませんでした。この流れで、灯籠の「物部安貞」は「守屋安貞」本人となったわけですが、なぜ「物部」姓を名乗ったのかは謎のままです。

北斗神社は祢宜太夫家の屋敷神 22.9.28

 本殿を造った棟梁・白鳥弥四郎の『萬扣帳』に、「神宮寺村長沢町片山北斗社…」と書いてあるそうです。余りにも特異な名称なので「後世に改称された」可能性を考えていましたが、幕末の創建時から「北斗神社」として造られたことがわかりました。
 守屋安貞が、ミシャグジではなく諏訪では唐突とも言える天御中主命を祭神としたのはなぜでしょうか。また、勧請元の本社はどこにあるのでしょうか。

 諏訪大社散歩道「祢宜太夫邸跡」を新規アップするために、ネット地図を見ました。拡大すると北斗神社の石段が表示し、北斗神社が祢宜太夫邸と密接な関係があることに気が付きました。

 地図中央の分岐[maru]は、同名のバス停がある「わかされ(分去)」です。県道16号は、田圃の中に開通した新しい道なので無視してください。
 この地図に北斗神社から北向きに線を引くと、祢宜太夫邸跡と交差します。ただし、現在はその場所に民家が建っているので正確な位置は不明です。そのため、「一ブロック」をで塗った表示にしました。

 「北斗七星」から神社が北に向いているのは不思議ではありませんが、屋敷から見れば、当然ですが南向きになります。これは「なぜ北斗なのか」が解明できない限り、「北斗信仰」より「守護神が屋敷を見下ろす・見守る」と考えた方が無理がないと思えます。

北斗神社と祢宜太夫邸 諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』の〔神宮寺村〕から、該当する部分を切り取りました。上図の〔GoogleMap〕に合うように回転させましたが、絵図なのでピッタリとはなりません。
 『絵図』が編纂されたのは享保18年((1733)ですから、この時代の祢宜太夫は、「守屋采女(うねめ)」とわかります。

北斗神社から見下ろす 参考までに、北斗神社から見下ろした「祢宜太夫邸跡附近」の写真を追加しました。