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(エッ)手塚次郎社!? 茅野市ちの 28.11.3

「手塚次郎社」

手塚次郎社 茅野市の宗湖寺から三輪神社へ歩き、バイパスの歩道橋を渡って「ケイヨーD2」前に降り立つと、案内板()が新設されていることに気が付きました。
 「エッ」とその場所を確認すると、その下にあるはずの「千野川明神」碑がありません。移転したのかと周囲を見回し、さらに歩き回っても見馴れた黒い石柱はありません。
 とりあえず、その文字を読んでみました。

 手塚次郎社
 慶長姿千野村や天正以前姿などの古地図に鳥居の表示と「手塚次郎」と画かれており、旧バイパス開通前には現在の宮川保育園の付近に南向きの祠があった。
 手塚次郎については明確になっていないが、下社の大祝「金刺氏」に手塚別当盛澄、その弟手塚太郎光盛などがおり、その一族に関わる人物ではなかったかといわれている。
 ここ、二久保川と田沢々川が合流するこの場所は、通称「次郎渡(じろうど)」といわれている。
茅野林野利用農業協同組合

 突然登場した「手塚次郎」ですが、まずは、諏訪大社上社のお膝元に、下社縁(ゆかり)の手塚氏を祀る祠があることに違和感を持ちました。この時は「茅野市教育委員会が設置したものだから(これでいいのだろう)」と、西茅野まで足を延ばして帰りました。

「千野川明神」

千野川社跡 “before”として、平成27年4月に撮ったものを載せました。言うまでもなく、石祠の右にある「千野川明神」碑が案内板に変わったことになります。
 私は、この祠を千野川明神として紹介していますから、全面的に書き直す必要性に迫られました。
 ところが、写真に撮っておいた新設の案内板を読み直すと、教育委員会ではなく「茅野林野利用農業協同組合」が設置したものでした。こうなると、「民間だから」ということではありませんが、「手塚」には“?”を付けていたので改稿することに慎重になりました。

『茅野村史話』

 冒頭に出た、案内板を見つける1時間前にいた宗湖寺の話に替わります。このサイトでは、過去に「諏訪頼忠公の菩提所 宗湖庵」に触れていました。今回、その宗湖寺の写真が用意できたことから、若干の補足を加えようという気になりました。

頼岳寺から移転した、現在の宗湖寺。

 史料を求めて、図書館に向かいました。何回も目を通している書棚ですが、見覚えがある背表紙に挟まれた中に、隠れるようにあった大久保善立著『茅野村史話』を見つけました。目的である「宗湖庵から宗湖寺」の話は興味深く読めたのですが、始めから読み直した〔茅野村の地形〕の中に、《 千野川明神が、なぜ手塚社に変わったのか 》が納得できる一文がありました。

 前記「中河原旧記」の、はじめの部分で、重要な事柄と書いたもう一つは、「千野川明神」です。
 この「旧記」によると、亀石明神は即ち千野川明神と書いてあります。
 ところが、茅野バイパスが完成した昭和四十年十一月に、レストラン三原(みはら)のすぐ東隣に、千野川明神とその説明を書いた記念碑が新しく建てられました。こうして、千野川明神は、西茅野地籍の亀石と、茅野区のニケ所になってしまいました。
 バイパス沿いに新千野川明神が建てられた頃、西茅野の郷土史家・五味健治氏は、交通事故で、長いこと入院していました。退院後同氏はこれを知って、間違いであることを主張いたしました。しかし誰も相手にならなかったというところが、正直のところです。それは、同氏が、証拠をあげて間違いを主張できなかったことと、もう一つ、これを建てた役員への配慮もあって、誰もさわぎ立てなかったことによります。
 この問題について、私は昭和四十五年頃、真偽を調査いたしました。その結果、同氏の主張通り、亀石説の真説であることを確信いたしました。
 昭和五年諏訪史談会発行の、「前宮及本宮並其附近史蹟踏査要項」には、「茅野川明神亀石」とあり、諏訪神社の末社で、無格社であると説明が加えられています。
 しからば、この新手野川明神の、本当の姿はなんでしょうか。
 前記、甲州道中の項で書いた古地図「慶長姿千野村」、そして「天正以前姿」には、何れも「手塚次郎」とあります。
 古老の口碑には、明治頃は、「手塚さま」あるいは「手塚社」と呼んでいたそうです。
 千野川明神については、後世に憂いを残さないために、本書に、はっきりと記載しておく必要を感じました。
 手塚社の附近を「次郎渡(じろうど)」と昔から呼んでいます。かって次郎渡は、駒形城を築塁した「茅野治郎敦真」の「治郎」から付けられたかの説を聞いたことがあります。しかし、「手塚次郎の渡り」(川を渡る場所)からきた地名であることは、間違いないと思います。
 西茅野大橋と、大汐(おおせぎ)(大せみ)のほぼ中間に、「山渡戸(やまとど)」(或は、やまわたど)という地名があります。ここは、昔、東茅野の人達が西山へ行く道で、宮川を越す場所でした。「……渡」は、川を渡る地名であることがわかります。

 要約すると、バイパスの新設で祠が移転した→補償費で新しい祠を作り、「千野川明神」としてその記念碑を建てた→バイパス改良工事に伴う土地再開発事業で現在地に再移転した→祠が「手塚社」とわかったので、碑を撤去して新しい案内板を立てた、という経緯になります。

 この書は昭和51年の発行ですから、40年を経て、大久保善立さんから“お呼びがかかった”と考えました。そこで、誰も気に留めない事跡だと思いますが、彼の志を平成28年版“新千野川明神の本当の姿”としてネット上に再配布しました。

手塚社は、本当に“彼の地”にあったのか

 私は、これまで「原初の千野川明神は(碑文の通り)その場所にあり、洪水で流されたために現在の宮川左岸に移った」と解釈していました。すなわち、千野川明神は「跡」を含めれば二ヶ所あってもおかしくないという立場です。そこに「否(いな)」と登場したのが「手塚社」ですが、手塚氏に繋がる史料や伝承がまったくないので返って怪しく見えます。
 幸いにも『茅野村史話』の口絵には、案内板にあった『慶長姿千野村』と『天正以前姿』があります。そこで、古絵図にある「手塚次郎」が、果たして案内板でいう「手塚社」なのかを検証してみることにしました。

 調べ始めて、すぐに安易な考えを後悔しました。この場所は古代から度々起こった洪水で流され、現代においても、バイパスとその改良工事の二回で大きく変わっています。また、中央自動車道はやや外れていますが、手塚社の位置を確定するのに重要となる御頭御社宮司社もその工事で移転しています。しかし、私の性分では、ここで匙を投げることはできません。

『慶長姿千野村』に見る「手塚次良」

 前出の古絵図は、代々の名主が焼失や紛失に備えて書き写してきたものだそうです。手書きで写しに写しを重ねてきた絵地図ですから、どこまで正確なものかはわかりません。しかし、道や川筋は変わっても、地名や神社の相対位置は参考になります。

 ここでは、より詳細に描かれた『慶長姿千野村』の一部を転載しました。ただし、墨一色なので道と川の区別がつきません。そこで、現在の地図や資料を参考にして、関係する道と川を着色しました。

慶長姿千野村 赤丸で囲ったのが手塚社です。下に「手塚次良」が読めます。その間を通り「御社宮司」へ続くラインが「御射山道」と読めたことから「現在の御頭御社宮司社の前の道」とわかりました。

 (関係ありませんが)手塚社の左上にある「産神」が「三輪神社」です。ここを巻くようにした道が現在の地図でも確認できることに驚きました(下写真参照)。

手塚社
国土交通省『国土画像情報』

 昭和23年撮影の航空写真に絵図を突き合わせると、田沢々川と御射山道が逆になっています。「これをどう捉えるか」と考えると、三輪神社と御頭御社宮司社(御射山道)の場所は不動とするのが妥当ですから、慶長以降の洪水で田沢々川の流れが大きく変わったことになります。一方の二久保川(次郎渡川)はほぼ同じですから、絵図を重要視すれば、御射山道との交点附近()が「手塚社」の場所となります。

手塚社
国土交通省『国土画像情報』

 次は、昭和51年の航空写真です。前出の写真との大きな違いは「バイパスの有る無し」ですが、ここでは、『茅野村史話』の「レストラン三原のすぐ東側」、案内板の「現在の宮川保育園の付近」と具体的に載る場所に「旧手塚社」を貼ってみました。

 以上、(私のこだわりで)時代差のある二枚の航空写真に、「推定地」と「旧地」を分けて示してみました。これで、手塚社が四百年を経た現在も(ほぼ)同じ場所にあることがわかりました。ただし、「手塚次郎」に重なる歴史上の人物を見つけられないことは変わりません。