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大天白(大熊の天白社) 諏訪市湖南 28.6.20

 文献によって「天白・天伯」の表記があります。

大天白 この絵図は、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』にある〔大熊村〕の一部です。「上部が北」ではありませんが、「大きな鳥居が諏訪大社上社の五ノ鳥居で、その道を左に向かえば本宮の境内」と補足すれば、おおよそのエリアがわかるかと思います。
 ここには、「七御社宮神」が幾つかあります。七社ある「御社宮神(の)(の一社)」と理解しましたが、平成の世では確認する術(すべ)がありません。ところで、本題はで囲った「大天白」です。これらの「御社宮神」については後ろ髪を引かれますが、ここまでとします。

大天白を探せ!! 6.10

新川(権現沢) この「大天白」が、自称「新川(権現沢)バイパス」から臨める大木二本の樹下にあるのではないかと、長い間目星を付けていました。
 そこで、ようやく今日の現地踏査となったわけですが、「なにー、天白!?」と、ここまでの書き出しに一気に惹きつけられた“天白命”の皆さんには申し訳ないのですが、早々に「そこには、何もなかった」という経過報告をする羽目になりました。

 近辺の地勢は、中央自動車道と県営住宅湖南団地の造成で大きく変わっています。このような現状では、近隣の(と思われる)旧家に声を掛けても、“代替わりした”年代の主婦には「わからない」の返事しかもらえませんでした。それ以前に、この可能性の方が大きいのですが、権現沢の氾濫で消滅していたことが考えられます。

 ここで、『絵図』に書き込んだ「旧道」について、団地や高速道路ができる以前の航空写真を探してみました。下は、これ以上拡大してもボケるだけ、という写真です。「昭和22年の撮影なので解像度がよくありません」と言うより、(米軍にとっては)山の中の町とあって、高高度(広範囲)で撮るだけで十分とした結果がこの画質なのでしょう。

諏訪市湖南「航空写真」
国土交通省『国土画像情報』USA-R238-No1-5

 下部の旧道が不鮮明なので◯をつけました。また、その根拠は後述となりますが、マーク が天白社(跡)の推定地としました。しかし、高速道路が開通した現在では“知らない町”になっていますから、『GoogleMap』を用意しました。


 航空写真と地図及び現地踏査の結果、“旧道”は、五ノ鳥居の直近にある湯神から山手へ向かう道となりました。これまでは、鳥居から湖南の信号へ直進する道が「旧道」と思い込んでいました。これは、『諏訪藩主手元絵図』の道が直線だったので、と言い訳ができますが…。

大天白の行方

 諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 諏訪市湖南篇』の〔大熊〕に「大天伯と十二所権現」がありました。

天伯社は三社あるが、何れがその大天伯なのか不明である。
  • 湯田大天伯社(下の免天伯社ともいう) 御枕絵図(※諏訪藩主手元絵図)にはこれが大天伯と出ているとのことである。所在地は権現沢の県道懸樋(かけひ)より東方約三、四十米の所にあった。県道開削によってその跡形も残さない。かつては大きな欅の杜で乞食の據(拠)点となっており、かつ親分の居住していた所である。
  • 中ノ天伯社 (略) 右の二社は南方御社宮司社に合祀されている
  • 砥沢天伯社 (略)

 ということで、県道が開通した際に、すでに「その跡」も消滅していたことがわかりました。そこで推定地となるわけですが、「懸樋」が意味不明でした。その後、権現沢が「天井水路」であったことを思い出したので、航空写真に、沢から「東35m」の県道上にマークを付けてみました。

大熊南方御社宮司神社

 「合祀されている」とあるので、大熊南方御社宮司神社へ行ってみました。これも早々の結論になりますが、目に付いた石祠には、社名・祭神は確認できませんでした。本殿内に合祀されたのでしょう。

寛正年中の石祠

 『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』の〔小熊村〕に、大天白の消息が載っていました。

一、大熊村 (前略)
大天白宮 藤森氏宮、寛正年と有、干支不分
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 この書では「寛正年」とあるので、石の祠であることがわかります。寛正は1460年から1466年ですから、(銘文によれば)諏訪では二番目に古い石祠となります。また、藤森氏の祝神(いわいじん)となっていますから、大熊南方御社宮司神社に合祀されても、巻の祝神として再び祀られている可能性があります。現在も、小熊のどこかに存在しているのでしょうか。