諏訪大社と諏訪神社トップ / 諏訪の神社メニュー /

千野氏と三輪神社 茅野市宮川 28.12.3

 諏訪に、三輪神社があります。旧村社では諏訪市の小川と茅野市の宮川に鎮座していますが、何れも大きな社殿を構えています。しかし、私には、「諏訪になぜ三輪なのか」と違和感があります。

 最近、千野氏関係の史料を参照する機会があり、「諏訪に三輪神社があってもいいかな」と思えるようになりました。

宮川 三輪神社

三輪神社
6年前の三輪神社

 新設の道路が開通したので、どこへ通じるのかと歩いてみました。すると、三輪神社の周辺が大きく変わっており、すっかり風通しがよくなっているのに驚きました。
 境内に茅野市教育委員会の案内板がありますが、ここでは、諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 茅野市宮川篇』にある〔三輪神社(茅野郷倉旧記による)〕を載せました。以降は、これを『由緒』とします。

所在 宮川宿尻(しゅくじり)
社名 村社 三輪神社(大正七年村社に昇格)

祭神 大国主之和魂(にぎたま)・大物主
 櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)

事由
 創立の由緒不詳なりと雖(いえど)も、之を古老の口碑に伝う其の創建は天平年度にあり。大和国城上(しきのかみ)郡三輪村大神神社(おおみわじんじゃ)を分霊し祀る。依って名称三輪社と称す。尓后(じご)年所(ねんしょ)を経、久寿(きゅうじゅ)年間諏訪次郎敦貞(眞?)の弟茅野大夫光親居て茅野に定む。依って姓とす。而(しか)して年々戸口増殖祀典(してん)を厚くす。
 毎年六月二十五日、十一月二十五日両度祭礼を行う。文化年間社殿を再建したるも、其の以前の沿革旧記の由るべきものなし。(本社は、西方西茅野の方へ面す。何か由緒あることと思われる)

建築 (略)

 神社の向きについては「駒形城に関係している」という話がありますが、ここでは省きます。

三輪神社 本殿は、覆屋の格子で囲われているので、その全貌を見ることはできません。茅野市指定文化財なので、その案内板から「文化元年(1804)三月に矢崎玖右衛門により建築され、拝殿は文政三年(1820)に建築されたが、明治四一年に改築している」と抜粋しました。ここまで三輪神社として紹介していますが、(諏訪の地なので)当然ながら大きな御柱が建っています。

伊藤祝神社

三輪神社 三輪神社の鳥居の下で拝殿を背にして立つと、右前方に見えるのが伊藤祝神社です。伊藤姓の巻が祀る神社ですが、古絵図『慶長姿千野村』にも載る古い神社です。
 この神社と三輪神社の間には、「かんてんぐら(寒天倉)」と固有名詞が付いた倉庫があります。最近イベント会場などで使われて有名になりましたが、関係ないのでこれ以上は触れません。

『慶長姿千野村』に見る三輪神社と伊藤祝神社

 古絵図『慶長姿千野村』の一部で、茅野市の旧甲州街道(旧国道)に当たる区域です。右端には、三輪神社の所在地である「宿尻」があります。宿場町(間の宿)の端=尻ということでしょう。

慶長姿千野村

 左上の文字を読むと、…「木落」です。もちろん御柱の「木落とし」ですが、こんな昔から地名になっていたとは…。以下に、の部分を拡大したものを用意しました。

太夫屋敷

慶長姿千野村 写真で紹介した「三輪神社(産神)」と「伊藤祝神社(伊藤)」の間に、二行の文字()があります。「太夫」だけは読めましたが…。
 その後、絵図の端に書かれた「式部屋敷」が読めたことから、「太夫も…」と比べてみると、「屋敷」が一致して「太夫屋敷」と読めました。
 相変わらず一文字目が読めませんが、『由緒』に出る「茅野太夫」に重なります。そうなると、ここが茅野氏の屋敷ということになりますが、慶長の頃は、「跡」を地名として呼んでいた可能性もあります。

 前出の「宿尻」の下にある「◯鳥居」が「手塚次郎社」です。ほぼその場所と言っても現在は歩道橋になりますが、その上から上図を眺めたのが下の写真です。余りの変わりように、信号待ちの車列をあえて入れてみました。

space伊藤祝神社の杜 spaceかんてん蔵(赤屋根)space三輪神社の杜

 ここまで慶長の古絵図と現在の写真を取りそろえて突き進めてきましたが、この先の展開に霧が掛かり始めました。

千野氏と三輪神社

■ 以降は茅野氏と千野氏が混在しますが、同じと考えてください。

 『千野(茅野)氏概説』によると、千野氏は「千護宮」附近に初めて居を構え、その後は、西茅野の「中村」−同「古屋敷(式部屋敷)」−(中略)−高島藩の家老として三之丸に居住するに到ったと書いています。
 私は、千野氏発祥の地は千護宮(御頭御社宮司社の近辺)ではなく『慶長姿千野村』にある「太夫屋敷」ではないかと考えてみました。そうなると、千野氏と三輪神社の関係が浮上してきます。
 その三輪神社の創建ですが、『由緒』では「天平」を謳っていますが、茅野市教育委員会(案内板)の「久寿年間(1154-1156)」が妥当でしょう。すでに安定した基盤を築いていた千野氏が、その頃に三輪神社を氏神として勧請したと考えてみました。ところが、この流れを比定するように、私が探し出した史料には、千野氏と三輪神社の関連性は書いてありません。

小川 三輪神社

三輪神社 諏訪市豊田にある、旧小川村鎮守の三輪神社です。この神社も「なぜこの地に三輪」と思っています。
 由緒として、豊田村誌編纂委員会『豊田村誌 下巻』の〔第八章 信仰〕から「三輪神社」を抜粋して紹介します。

 小川の産土社である。祭神は大物主命で、(中略)正確な年代は不明であるが、江戸時代前期〜中期にかけて勧請されたものと考えられる。

 早くても江戸時代初期ですから、比較的新しい神社となります。

 別資料の『諏訪史蹟要項 諏訪市豊田篇』の〔小川村〕には、文出村との別村問題でもめた際、藩に提出した“証拠書類”が載っています。「天保九年の願書には、」と題する文書から、冒頭の部分のみを転載しました。

一、当村之儀は、慶長年中御家老様御見立新田にて…

 小川新田の開発は、高島藩の家老が音頭を取ったと書いています。時代は「慶長」ですから、家老は「茅野頼房」となります。
 新田が成立して落ち着けば、次は「村の鎮守を」という話になります。開発を主導した家老に敬意を表して、または相談を受けた家老が推薦して、千野氏の故地にある三輪神社を勧請したことが想像できます。

 『神長重實藤島社祝詞』は、神長官守矢重実が藤島社の式年造営に奏上した祝詞です。ここに「頼房」の名前があります。冒頭の部分を転載しました。

これ當り来れるこのとし、小河の郷をふたゝひ頼房草創して
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 奥書はありませんが、二人の名前から、江戸時代初期とわかります。ここでも小川村と茅野頼房の関係がわかり、さらに、千野氏と三輪神社の関係も推察できます。しかし、…これ以降に進展するはずの史料が見つかりません。ついに、五里霧中となってしまいました。