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茅野市北山「飛岡紀行」 茅野市北山 28.4.10

 過去に度々登場した「飛岡」ですが、記憶に残っている(読んでくれた)人は皆無と思われるので、改めて『祝詞段』の一部を紹介しました。

湯川ニ子ノ神(ねのかみ)・柏原子ノ神・トヒ岡子ノ神・中村ニ大法師小法師
諏訪教育会『諏訪史料叢書 第二巻』

 750年前の文献に出る古名「トヒヲカ・トヒ岡」ですが、これ以上調べても進展が望めないので、「飛岡」を自分の足で踏みしめて終止符を打つことにしました。

「飛岡」って、どこにある!?

飛岡地図
境界現在の湯川区・芹ヶ沢区境界 

 茅野市『茅野市史 中巻』〔第二章 古村と新田〕から、「富岡・芹ヶ沢山問答関係の字(あざ)」とある地図の一部を加工して転載しました。この地図を見て、今も「飛岡」の字(あざな)が残り、「飛岡橋」もあることを知りました。

いざ飛岡へ 28.3.25

飛岡橋 原村からは戻る方向になりますが、あえて飛岡橋を渡り、さらに徒歩で戻って「飛岡・とびおか」の文字を確認しました。笑われそうですが、これが私のこだわりで、結局、その文字が形として確認できた唯一のものとなりました。
 その先は大きなカーブで勾配を緩やかにした道で、上がり切ると広々とした台地が広がりました。これが即ち飛“岡”と実感できましたが、前出の地図では読み取れない地形でした。

飛岡
原の城址から西方を臨む(川を挟んで朝倉山)

 道脇にポツンとある案内板を読むと「原の城址」です。私は古城フリークではありませんが、見晴らしが利きそうなので、その一画に立ってみました。
 右端に人家が一軒見えるだけで、すべてが田畑という景観ですから、「飛岡は高台にある飛び地」とイメージ通りとなりました。しかし、『芹ヶ沢史』にある「飛岡地籍に集落があったが、水害のために現在地に移住した」という伝承が重なりません。目立った河川はなく、むしろ水不足が危惧されるからです。

 「経塚跡」の案内板を読んでから、台地の突端へ向かいました。「桝形城址」の案内板があります。相対する山が朝倉城址ですから、古城歩きが目的の方は、一気に三城を眺めることができます。しかし、私はあくまで「飛岡」です。これ以上進むと転げ落ちるという終点から覗くと、上川と滝ノ湯川が見下ろせました。

飛岡
遠景は八ヶ岳(桝形城址はビニールハウスの辺り)

 左写真は、この場所から振り返ったもので、八ヶ岳の一つ天狗岳がピークを競っています。しかし、二枚とも、飛岡の広大さを写しきれていません。
 そこで、朝倉山から飛岡を俯瞰してみようとの考えが浮かびました。「何もそこまで」という思い付きですが、「飛岡」をネタに幾つも文を書いてきましたから、感謝の意とともに最終章としては面白そうです。

 カーナビで確認すると塩沢側に車道がありますが、山頂からは離れすぎています。決断できないまま湯川の集落から川沿いの道を走っていると、案内板「朝倉山城跡」を見つけました。しかし、車道は耕作地の最上部までで、そこから「城跡まで40分」というハイキング道でした。タウンユースの靴でしたが、(まだまだ)自分の足なら30分という自負もあり、ためらわずに山頂を目指しました。

 靴の中では足が往復し、靴底は積もった落ち葉で滑るという道に苦労しながら不鮮明な道を極めると、御嶽神社の石祠と、まるでストーンサークルという「三十六童子」が迎えてくれました。

飛岡
朝倉山(城址)から飛岡の全景

 麓からも見えた展望台に立つと、立木が手前の上川と芹ヶ沢子之社の脇を流れる渋川との合流点を隠しているのが不満ですが、飛岡の地形がよくわかります。やはり「飛岡は高台にある飛び地」でした。
 すでに3時を回っています。飛岡と八ヶ岳を背にすると、吹き上げてくる風がわずかに残っていた汗を急速に冷やしました。今日は、予報では最高気温はシングルという一日でした。

『諏訪藩主手元絵図』に見る「飛岡」

芹ヶ沢村
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

 〔芹ヶ沢村〕の一部を転載しました。西端に当たる村境は甲州道(大門街道)ですが、「湯川界」とある[---]が食い込んでいます。あくまで絵図なので正確さは望めませんが、何か不自然です。
 また、芹ヶ沢子之社は飛岡から現在地に移ったと伝えられていますが、その「飛岡」は、江戸時代の絵図では湯川村に含まれています。この関係がわかるように「(飛岡)」と書き込んでみましたが、私の目には「謎の飛岡トライアングル」と映ります。

湯川村
湯川村(一部)

 上図のの部分を湯川村で見ると、「飛岡」があります。改めて『祝詞段』を持ち出すと、湯川村の北が柏原村で南西が中村ですから、「湯川に子ノ神・柏原子ノ神・トヒ岡子ノ神・中村に大法師小法師(現大星神社)」の記述から、「トヒ岡子ノ神」が芹ヶ沢子之社に当てはまります。
 そのため、中世では、現在の呼称「芹ヶ沢」が飛岡であった可能性が出てきます。また、北山の旧三村がすべて「子ノ神」を奉っていますから、「本居社飛岡子神大明神」の別称が残る芹ヶ沢子之社が、北山地区にある子之神社の総本社とも思えてきます。

富岡と芹ヶ沢の山境論

 前出の〔古村と新田〕から〔湯川村〕の抜粋です。

 天正六年(一五七八)三月に、富岡と芹ヶ沢の山境論について武田氏から裁許が出された。この争論に、両角孫左衛門が富岡を代表し、監物内記(両角氏か)が芹ヶ沢を代表して主張を述べている。
 「富岡の内の水上」に、手作りの三斗五升蒔(まき)の畑があり、同じく富岡の内の汐添(せぎそえ)に二斗二升蒔の畑があると監物は主張し、同じ汐添に三斗五升蒔の手作りの畑があると孫右衛門が主張する。
 また、同じく富岡の内に「とびおか」の二郎左衛門・湯川の与五左衛門・与七郎・四郎左衛門・三郎右衛門・善三郎・清左衛門などの六升蒔から六斗蒔の畑があるといっている。
 現在、飛岡という字が残っているが、右で見ると当時富岡といったのは字(あざ)水上などをも含めた広い範囲を指していたことがわかる。また、富岡を「とびおか」といっていたもので、富岡の住人と湯川の住人を分けているのは、渋川に近い方を富岡といい、滝之湯川に沿った方を湯川といい、両方を合わせて湯川郷といったと思われる。耕地の広さを何升蒔といっていたこともわかる。(中略)
 境論は後まで続く。(後略)

 これを読むと、両村の境「飛岡」は山林で、現在のように開けていないことがわかります。現地を歩き、かつ見下ろすと、平坦地であっても開発が遅れたのは、水利の悪さであったことが想像できます。それでも、小規模な畑が散在していたのでしょう。
 この状況から、それぞれの村からは「高台の飛び地にある耕作地」として「飛岡」と呼ばれたことは不自然ではありません。

 冒頭で書いたように、「飛岡」を追求するきっかけとなった『祝詞段・諸神勧請段』に出る小野神社・矢彦神社の「トヒヲカノモリ・トヒヲカノ森」に関連づけることができないまま“飛岡への旅”は終わりました。