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八櫛社 茅野市ちの 19.3.26

右が「八櫛社」一之御柱 御座石神社境内の東端に、板壁の建物が見えます。「広い境内のさらに奥」という位置なので、70%の確率でトイレを確信しました。入口を求めてその前に廻り込むと、意外や意外、灯籠と「薬師堂跡」の案内板がありました。

薬師社のいわれ
 江戸時代まで、御座石神社の境内に、薬師如来をまつる薬師堂があった。これは神仏習合の考えによるもので、日本中の神社にはこのような寺堂が併置されていた。衆生(しゅじょう)を病気から救う仏で、安産の仏でもあり、東方浄土の教主である。その為に、薬師堂は東向きに建てられた。
 明治維新の廃仏毀釈の時に、薬師堂も破棄される運命にあったが矢ヶ崎村(今の本町)の人々は、霊験あらたかな薬師堂を破棄するに忍びず、同じ名前の八櫛神(やくしのかみ)を勧請して八櫛社としたのである。
 それは簡単には許可されず明治三十年以後までかかった。

 改めて、まだ白木の香りが残っていそうな拝殿を見直しました。横に廻ると、拝殿より二回りほど狭い板塀から石祠の屋根だけが覗いています。本殿でしょう。扉の“十分の一開き”を招待状と受け止め、失礼して直接拝観することにしました。

八櫛社本殿 祠は、見慣れた「流造」ではなく「寄棟造」でした。石仏の鞘堂をそのまま転用したのでしょう。向拝柱がないので、何となく違和感を感じます。
 「石の表面が赤っぽいのは、背後の拝殿板壁から西日が反射しているためです」と明解な説明ですが…、カメラを向けているときには何故なのかわかりませんでした。まだ三時半という時刻でしたから不思議でした。

薬師兼八櫛 祠の中には通常は幣帛が収められていますが、案内板が納得できる、衣紋が刻まれている石仏が安置してありました。それにしても、仏様を神様に変えてしまう信仰とは一体何なのでしょう。当時の世情をわからないまま「あれこれ」言うのも何ですが、「語呂合わせで、そこまでやるか」が、現代に生きる私の正直な感想です。
 明治維新後の神社を統括する官庁はどうだったのか、手元にあった『神道の本』を開いてみました。要約し過ぎてくだけた表現になってしまいましたが、「当時は、当に“元旦令大晦日改”を地で行く目まぐるしさで、お役所自体も試行錯誤という激動の時代」とありました。

 その中にあっても、門前払いに挫けることもなく粘り腰で交渉したのでしょう。理解する担当者が現れたのか、または(そんな鄙の地のことまで面倒見切れないから)善きに計らえと根負けしたのか、ようやく受理された背景が想像できます。
 許可は下りたものの、仏様に「今日からは神様ですよ」と言い聞かせても永久に“聞こえぬフリ”をするでしょう。そうだからと言って、“強引にドミノ”するのは余りにも不謹慎です。薬師様には天上界へ帰ってもらい、新たに八櫛神を迎える何かの仏事と神事があったと思われますが、私にはその知識がありません。墓石を普通の石に戻すことを「脱霊」と言うそうですから、「脱仏・入神」となるのでしょうか。

 「長野県神社庁」のサイトから「神社紹介」の項を閲覧してみました。「八幡」と「八坂」の「八」が多くて眼がチカチカしましたが、長野市北郷に一社だけ「八櫛神社」が存在するのを確認しました。今度は「八櫛神社」でサイト検索すると、その八櫛神社が数多く表示します。「ブランド八櫛社」と言うネーミングに惹かれるのか、長野市周辺では結構知られているようです。改称の理由も「薬師→八櫛」と同じ流れでした。
 八櫛神はでっち上げだと思いますが、誰も否定できないのが「八百万(やおよろず)」と言われる「何でもアリ」の神様です。長野県では2社ですが、他県ではどうなのか、なかなか気になる八櫛社の存在でした。

 その後、守矢神長官の守矢氏の系譜に、五代「八櫛ノ神」を見つけました。ただし、同名だけで縁も縁(ゆかり)も無いようです。