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八剣神社 茅野市南大塩 21.5.25

 『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』〔一、大塩村〕から抜粋しました。

小平氏宮八劔宮有、是は小和田村宮坂氏の別屋安右衛門登勧請すと云、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第三巻』
八剣神社
28.10.26 

 玄関先でくつろいでいるお年寄りがいます。先ほど参拝した御頭御社宮司社の案内板に「上社と下社がある」とあったので、目の前の神社が「下社」なのかを尋ねました。
 ダメ押しのつもりでしたが、予想外の「八剣神社」と言います。地図に八剣神社の表示はありましたが、これほど近くにあるとは思っていませんでした。御社宮司社が二つあることは否定しましたが、八剣神社について面白い話を聞くことができました。前の家を指して「熱田から来た人で…」と淀みなく続きます。
 以下は、南大塩の歩み編集委員会『南大塩の歩み』から〔八剣神社〕を紹介したものです。ほぼ同じ内容なので、正確さを期すためにこちらを載せました。

 宮坂氏同族が祀る神社である。境内も社殿も大きく、社付近の広い土地に八剣通りの地名を残している。嘉禎三年の『祝詞段』にある古社である。宮坂氏の先祖は尾張の熱田神宮に使えた社人で、熱田神宮を分祀持参して一族と共に南大塩村に土着し八剣神社を祀ったと伝えられている。
 高島城が築造されたとき、高島郷の八劔神社が小和田郷に移された。その頃、南大塩郷の八剣神社には社宝として何枚かの鏡があり、その鏡を譲ってくれとの申し入れが小和田からあった。その申し入れは、城主日根野氏の威光をかさにきて拒否できないものであったが、当時鏡を保管していた宮坂某家では鏡を手放すのを惜しんで、一枚だけ庭先の胡瓜畑に隠し、残りを渡したという。以後その畑では胡瓜が育たなくなり、現在も胡瓜を作らないのが家伝であるという。

 彼は“鳥居前の住人”ですから、得た知識を事ある毎に吹聴したので、すっかり諳(そら)んじたのでしょう。もしかしたら、この人が“大原典”…。

八剣神社

 貴重な話を頂けたので、素通りする手はありません。鳥居からちょっとした斜面を上ると、覆屋の中に本殿がありました。

八剣神社本殿
28.10.26 

 一間社流造ですから、巻(同族)の祝殿としては本格的な社殿です。
 板の格子で囲われているので社殿の全容は見にくいのですが、隙間から差し込んだカメラはしっかりと写し取ってくれました。

 二基ある灯籠には「宮坂氏子中」とあるので、正(まさ)しく宮坂姓の氏神であることが裏打ちできました。かなりの名家と思われます。

小和田「八劔神社」と南大塩「八剣神社」

 「諏訪の八剣神社」と言えば、小和田にある「八劔神社」でしょう。旧県社という格式の高さと諏訪大社との深い縁から、知名度はこちらが圧倒的です。その本社が、八ヶ岳山麓にある“ただの祝神”であったとは驚きました。「総本社・諏訪大社の総々本社が旧神長官邸にある御社宮司社」というようなものでしょうか。
 〔八剣神社〕の続きです。

 また小和田には、天正年間に宮坂利右衛門が八劔明神宝物一躰及鏡竿を頒ちて、山浦の南大塩郷に移り同所に分社八剣神社を鎮座したとの口碑がある。八剣社は平安時代末には南大塩にあったことが確かなのでこの説はうたがわしい。
 南大塩と小和田に共通した八剣神社に関する口碑があり、両社共に宮坂氏の氏神であるだけに何らかのつながりがあると思われるがよくわかっていない。

 ここには、小和田八劔神社の“言い分”も載せていますが、それは疑問としています。よくある「本家」争いですが、改めて、嘉禎三年(1237)の奥書がある『祝詞段』を読んでみました。

・茅野川ニ亀石…高島八劔(※江戸初期に高島から小和田に移転)
・湯川ニ子ノ神…南方ニ…八劔明神(※南大塩)
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 文献では鎌倉時代の中期頃には両八剣神社が鎮座していたことになりますから、どちらが古いとは断言できません。やはり、「よくわかっていない」と結ぶのが一番よいでしょうか。

八剣神社と棒道 28.10.25

 『GoogleMap』に付加した「棒道」と県道との交差点に、南大塩区が設置した「茅野市文化財 信玄の棒道」の案内板があります。
 抜粋ですが「この棒道は室町時代、武田信玄が川中島合戦で上杉謙信と戦ったとき甲斐の軍勢を現在の松代(川中島)へ進めるために整備した戦いの為に作られた軍道である」として、その一つである「下の棒道」のコースを挙げています。

棒道 この近辺は「…塩ノ目−南大塩(千本木坂−鎧兵坂)−芹ヶ沢…」とありますから、八劍神社の脇を通っていた道となります。ただし、その痕跡はあっても、実際に歩けるのはの部分だけです。
 それぞれの時代から、武田信玄が行軍の途中で八劍神社を参拝したことも考えられます。