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文出八剣神社 諏訪市豊田文出 27.6.16

八剣神社

 文出(ふみで)の御社宮司社だけでは片手落ちなので、八剣神社も参拝することにしました。カーナビにその場所をセットし、言われるがままにその前に到着しました。駐車場がないので玉垣ギリギリに寄せましたが、道向こうが民家の入口なので迷惑がかかりそうです。境内横の田圃との間がかなり広いのに気が付き、そこを駐車場代わりとしました(このページを読んで八剣神社へ行く人はいないと思いますが、参考までに)。

豊田文出八剣神社

 境内に「由緒書」がないので、豊田村誌編纂委員会『豊田村誌 下巻』〔第八章 信仰〕から「八剣神社」を抜粋して紹介します。

八剣神社 文出の産土神。明治二年(一八六九)の書上帳によると、祭神は八剣大明神、祭神日本武尊とあり、あるいは素戔鳴尊という。『長野縣町村誌』南信編豊田村の項に「村社で豊田村文出の産土神。日本武尊と草薙剣徳を祭る」、別帳によると「文出村の氏神。草薙劍徳をまつる」とある。
 由 緒 鎮座の年代は災禍などで大方の古文書が散逸して不詳であるが、八劍神社の鎮座は天文年間から永禄年間( 一五四〇〜一五六〇)頃であろうと推測される。
 当時武田信玄の家臣篠原讃岐守吉忠が、天文十一年(一五四二)七月に人諏し、諏訪明神祭事の支配を命ぜられ、踏出郷(文出)の地頭となり住していた。御社宮司社は極楽寺と共に讃岐守の守社であった。当時は人家も少なく、八劍神社の鎮座は当時かその前後に産土神として祭られたのではないかと考えられる。
 平成八年諏訪市文化財審議委員に建築年代について調査を
依頼した。その折、本殿(神殿)は当初の古い建築様式であ
るという結論だった。鎮座年代推測を裏付けるものであろう。
 『諏訪藩主手元絵図』には「ウブスナ」と「三社宮司」と
明記されているので、近世からの文出では、宮川を挟んで下
金子村と真志野村・田辺村の村境に東西二つの神社が鎮座していた。
 その当時ウブスナ社からカマエ川にかけて一帯は「文出落
(ふみでらくがん)」と呼ばれ、スイナ池と阿原の湿地であり、鳥獣の猟場だったようで藩の重臣たちがよく猟に来たという。
 創建当初の古い社の御簾(みす)が現存している。これは藩主から下賜されたものと伝わっていて今も祭事の際に使用されている。
 「八剣神社」と呼称するようになったのは、明治六年(一
八七三)太政官通達以後のことである。
 寛保元年(一七四一)から現在まで多数の古文書・棟札が
現存している。平成十七年(二〇〇五)覆屋の中に古い社殿
をそのまま保存し、八剣神社覆屋の全面改築工事が完成し現
在の外観となった。

文出八剣神社拝殿 御社宮司社もそうですが、八剣神社は平地にあるので、諏訪の神社とすれば若干の違和感があります。山城から平城への変遷と同じで、諏訪湖を干拓してできた村の鎮守社というのがその要因でしょう。現在の地勢からは“嘘のような話”ですが、かつては諏訪湖の満水や「氷津波」に見舞われ、村の存亡に関わるほど疲弊したこともあったそうです。
 直接には関係ありませんが、由緒の「スイナ池と阿原の湿地であり、鳥獣の猟場だったようで藩の重臣たちがよく猟に来たという」を読んで思い出しました。諏訪へ流された松平忠輝が「密かに抜け出し、文出から田部にかけて狩猟を楽しんで流人の身を慰めた」というものです。高島藩も、徳川家からの預かりとあって、かなり大目に見ていたのでしょう。

八剣神社本殿

豊田文出「八剣神社本殿」 「土足厳禁」なので靴を脱いで昇壇し、扉の格子越しに本殿を撮りました。まだ白木の香りが残っていそうな拝殿の中での黒い本殿に、一瞬ですが戸惑いました。
 新しい拝殿と古い本殿の取り合わせが珍しいということもありますが、本殿がしっかりと拝観できたことが久しぶりだったということかもしれません。

境内社「三峯社」

 祠の下と基台の隙間に差し込まれた二枚の木札は判読できませんが、横に置かれた一枚に「三峯神社祈祷之神璽」と読め、三峯社と確定できました。

八剣神社境内社「三峯社」 “有効期間”が一年間であっても、なぜ御神体とも言うべき御札が雨ざらしになっているのかは想像もつきません。ただし、文字が判読できる御札が、最後の「御眷属拝借」になったことだけはわかります。
 それ以降に三峯講が解散したので、神体が不在のまま、御柱を建て替えてきたということでしょう。それにしても、初めて諏訪に来た大口真神が、いきなり御柱を建てられて迷惑したのは想像に難くありません。