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旧高木村の御社宮司社「藤ノ木社」 下諏訪町高木

 「富部村の御社宮神」に続き、「高木村も」と欲張りました。

高木村のミシャグジ社

高木村の御社宮神
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』(部分)

 『諏訪藩主手元絵図』にある〔高木村〕を開くと、大木があり「御社宮神」と書いています。富部村と同じ立地なので、「一村一御社宮神」とも思ってしまいます。
 下諏訪町誌民俗編編纂委員会『下諏訪町誌 民俗編』〔下諏訪町の文化財〕に載る[石造文化財]を参照すると、石祠一覧に「所在地 高木旧道西ノ辻」とあり、「藤木社(もと御社宮司社という)」と説明しています。これで、今までその存在を知らなかった藤木社が、絵図にある「御社宮神」ということになりました。
 しかし、『下諏訪町誌』で得られた「藤木社・高木・甲州街道・西ノ辻・御社宮司社」をネットで探しても、反応はありません。

高木の字界図 原点(典)である『下諏訪町誌』に戻って〔里の字名分布図〕を見ると、『諏訪藩主手元絵図』にある妻ノ神と御社宮神が、「才ノ神」と「藤ノ木」として程よい距離感で載っています。
 この小字(こあざ)が今も残っているとは思えませんが、グーグルマップを拡大すると、「西高木」に「藤ノ木ハイツ」が表示しました。中央本線の脇ですが、「西ノ辻−西高木・藤木社−藤ノ木」と対応します。
 「これだけわかれば現地へ」ということになりますが、今やネット時代ですから、藤ノ木ハイツがある一画をストリートビューで事前走査しました。ところが、一時停止を繰り返しながら左右に目を配っても見つかりません。『下諏訪町誌』は平成12年の刊行ですから、すでに移転かと悲観的になります。それでも「まだ健在なはず」と言い聞かせ、字界から一本東の道を走ると、甲州街道と交わる一角に石祠がありました。小躍りまではしないものの、藤木社(藤ノ木社)で間違いないと達成感に浸りました。
 この小さな矛盾は、藤ノ木に「(字)屋敷」が食い込んでいる字界図と最新の地図を見比べて納得しました。藤ノ木ハイツの前で字に別れた外側を旧道とすれば、解決するからです。

藤ノ木社 30.2.23

 甲州街道を、富部から高木に向かって歩きます。休石の探索も兼ねているので諏訪湖へ向かって下る細道を覗き・透かすと、今は鉄路で遮断されていますが、ほぼ一軒毎に小路があることに驚かされます。かつては、日々の暮らしに密着した道だったのでしょう。道中には諏訪湖へ石を投げて遊んだと伝わる「石投げ場」の地名が残っていますが、それより、はるかに、すぐ下が諏訪湖であったことが実感できました。

藤ノ木社
甲州街道と藤ノ木社(左方が諏訪湖)

 「見つけた!!」という高揚感がないままたどり着きましたが、境内の一画がゴミの収集場所を兼ねているので、カラスやネコの食害を防ぐネットが…。

藤ノ木社 この黄色の背景に曲がりくねった御柱ですから、「滅び行くミシャグジの姿がよくわかる」と描写してみました。しかし、祠内に真っ新(さら)な幣帛が覗けるので、今年も祭祀が行われたことがわかりました。
 ところが、祠に銘が無いので、藤ノ木社ではない可能性が出てきました。お墨付きをもらおうと地元の人の出現を待ちましたが、叶わず、近隣の旧家に声を掛けました。三軒目にして応答があり、藤ノ木社と断定できました。

 「三軒づつが当番になり、12月の第一(土?)日曜日に幟を立て、諏訪大社の神職を呼んでお祭りをする。時間は朝8時頃」と話してくれました。「その時には、ぜひ来てくれ」と誘われましたが、…十ヶ月も先では。また「踏切近くの三角地に藤の大木があった。その東にある斜めの道が旧道で、直進する道は新しいもの(下図参照)」と付け加えました。

高木の“ディープな散策”は、この案内板で

藤の木社(ミシャグジ) 近くなので、高木の鎮守社である津島神社へ寄ってみました。その道中にある柿蔭山房(しいんさんぼう)に目をやると、『赤彦の里 散策案内』と題した絵地図があります。
 チョッとだけお邪魔して覗き込むと、こちらは「藤の木社」ですが、一目でわかる場所に“ミシャグジ”まで並記してありました。それを突き止めるのに膨大な時間を費やしたのですが、「それはそれで面白かった」と、半分負け惜しみを口にしました。

「検地はじめの木」と原鎮座地

 『下諏訪町誌 中巻』〔第三節 信仰〕にある[杉の木明神]の一部を転載しました。

(前略) 高木村には一村限村地図(諏訪藩主手元絵図)に、このほか御社宮神・天狗祠・牛頭天王社(現在の津島社)がある。御社宮神は俗に藤之木社といい、検地はじめのと伝え、欅と榎の巨木に藤がからんで美しく咲いた。天狗社は今の公会堂の地にあり、(中略)この両社はいずれも津島社に合祀された。

 何かしっくりしない「御社宮神は…検地始めのと伝え」ですから、文脈からは「検地始めの」の間違いとも思えます。古(いにしえ)からある天白社や御社宮司社の祠を検地の基準点にした例が多くあるからです。それとも、『諏訪藩主手元絵図』に描かれているように、祠が無い湛の木だったのでしょうか。

 『下諏訪町誌』は、〔中巻〕では「御社宮神を津島神社に合祀した」と書き、〔民俗編〕では「所在地は旧道西の辻」としています。現状は甲州街道と旧道の辻に祀られていますが…。
 後日、津島神社で確認してみると、天狗社のみが『由緒』に既述され、かつ境内社の石祠として存在していました。両書を総合的に見れば、御社宮神は津島神社から現在地に遷座したということになります。
 その一方で、御社宮神は、『諏訪藩主手元絵図』では甲州街道から離れた場所にあるという疑問が浮上しました。原鎮座位置は、今は藤棚がある三角地(上図参照)と考えれば解決しますが、どうでしょうか。