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不動堂の鳥居 諏訪市岡村 29.12.5

 松沢義章さんが書いた『顕幽本記(けんゆうほんき)』〔春之部三〕にある一文を、現代表記に直して転載しました。

 下桑原郷(※現在の諏訪市)の岡村に不動という仏の堂ありて鳥居を建きたれり。天竺国の戒等かいい出しし不動に鳥居を建べき謂(いわれ)なし。心得がたく思い疑いしが、近ごろ聞けは此堂より凡(およそ)二十間(36m)余り隔て御射宮司の社あり。此は疑(うつ)なく此宮の鳥居なるべし
 去(いに)し享保といいし年のころ、町中よりこの辺りかけて火災ありける。後、花畠より金山小路という所まて新に小路をひらきたまいし故、夫(そ)にへだてられて社と鳥居と別なる所となり、鳥居は不動のある方に残れるならん。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 「仏堂に鳥居がある」だけでも好奇心をくすぐりますが、それに「ミシャグジ」が絡めば、もう放置することはできません。そこで、現地踏査の前準備として、不動堂と御射宮司社の場所を探すことにしました。

 グーグルで「諏訪市岡村 不動」を検索しても結果が得られないので、〔マップ〕に切り替えて「岡村」を表示させました。しかし、色分けされた区域内を拡大しても、「不動」に関するものは見つかりません。複数のネット地図でも同様なので、早くも〔不動堂の鳥居〕はタイトル倒れになる可能性が出てきました。

不動は「◯◯不動明王」

 平成28年の秋、阿弥陀寺から市内へ向かう道中で、地図では知っていた諏訪二葉高校の前を通りました。「ランニングで息を弾ませる何人もの女生徒を見て思わず…」との話は省き、もうすぐ国道かという北沢温泉の奥に、不思議な堂宇があったことを思い出しました。

大日大聖不動明王 その時は、提灯に「不動明王」が読めるのに、屋根の鬼板と定紋幕に「諏訪大社の紋」があるという現実に悩んだのですが、それが探している不動堂と重なりました。「これだ!!」ということで、不動堂を探して彷徨(さまよ)うことで地元民から不審者に見られる危険が回避できました。
 場所が特定できたので、古絵図に載っているかを調べてみました。

諏訪市岡村
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

 享保18年(1773)編纂の『諏訪藩主手元絵図』から〔下桑原村〕を開くと、岡村北沢に神社があります。「これが鳥居のある不動堂」と喜んだのですが、『顕幽本記』に出る「享保の大火があった・新たに小路が作られた」が引っ掛かります。
 同じ享保なので、大火と絵図の年差を調べてみました。

天狗火事

 『諏訪市史』の[火災年表]には、…享保がありません。同じ「享」の享和の大火あるので、彼の記憶違いか『叢書』の誤植とし、岡村一帯が全焼した「享和の大火」を転載しました。

 享和三年(1803)三月二日昼四ッ時、岡村横小路から出火し、正願寺・貞松院・高国寺、岡村南沢は残らず、神田通り・裏町通り・清水端汐まで両町残らず、小和田・湯小路両方横小路、甲立寺・八剱御宮まで、神楽殿は残り、桑原町鍵手残り・教念寺小路残り、岡村北沢花畑まで横道通りは残らず焼けた。(中略)天狗火事とよばれている。
諏訪市『諏訪市史中巻』〔火災と防火体制〕から抜粋

 浅川清栄責任編集『高島城と諏訪の城』に、小路の解説がありました。〔天狗火事と道路の拡幅〕からの転載です。

御花畑小路 享和三年四月の申し渡しに、「花畑柿沢相馬屋鋪まで行き留り道に付き、同人屋鋪南の端通り金山小路へ通り抜け新道巾七尺」とあり、この時「金山小路」へ通ずるようになった。

 この記述が「花畠より金山小路という所まて新に小路をひらき」と一致したので、「享保享和といいし年」に修正してみました。また、『諏訪藩主手元絵図』は大火前の編纂となり、鳥居は、御射宮司社としたい“神社のもの”となりました。

古絵図に「不動」と鳥居が…

不動堂
東京美術『復刻甲州道中分間延絵図』(部分)

 『甲州道中分間延絵図』では、赤い鳥居に「不動堂」と書いていますから、正に「鳥居がある不動堂」です。
 原本を調べると、天狗火事の3年後となる文化3年(1806)の完成です。復興がなった街並みということになりますが、調査と作成期間を加味すれば、火災直前の様子とも考えられます。

不動尊
『慶応四年信濃国高島城下町絵図』

 明治元年の『高島城下町絵図』を見ると、その場所に鳥居と「不動尊」があります。また、右上に御射宮司社があるので、すべてがそろったと思ったのですが、拡大すると「金山社」と読めました。
 御射宮司社は不明のままですが、古絵図にも「仏堂に鳥居の不思議」が確認でき、後は現地踏査をするのみとなりました。

不動堂は、大日大聖不動明王 29.10.31

「大日大聖不動明王」諏訪市岡村

 右手前は北沢温泉(地専)・赤屋根の不動堂・奥が北沢公民館という、公仏混淆という不思議な景観です。不動堂の前に立つと、提灯の文字から「大日大聖(だいしょう)不動明王」とフルネームがわかりました。

 不動堂の周囲に鳥居がないのを確認してから堂内を覗くと、ビニール越しとあって霞がかかっていますが、目の前には大きな扉が…。内陣の扉を拝観しても始まらないので目線を上げると、読めない「山号」額と天狗の団扇(うちわ)と思われる奉納額が懸かっていました。

 御射宮司社を探すために、不動堂を中心とする一画に沿う道を、左・左と折れて進みます。しかし、通行人の視線では目を鋭くしても塀の内までは届きません。すぐに「ここに出るのか」という新発見とともに周回の旅は終わりました。

御柱 見納めとしての視線を巡らすと、境内に接した民家の間に御柱と小さな木祠が見えました。現状は屋根だけという物置ですが、石碑のような大石が並んでいることから、かつては庭だったようにも見えます。
 それを御射宮司社とする保証書を得るために、意を決して、その家の前に立ちました。折良く話を聞くことができたのですが、「裏の家の屋敷神で、この辺りは多くある」と言います。「ミシャグジ」を持ち出してなおも食い下がりますが、「それはない」と引導を渡されました。しかたなく、「これが平成の現実か」と引き下がりました。

岡臺山 自宅で、諏訪大社に繋がるヒントを見つけようと、画像でメモした山号をジーッと見つめました。山号は近くの山名を採用することが多いので、幾つかのキーワードで検索すると、「岡見山」がありました。その一つが「高島小学校に併設した諏訪二葉高校の前身が岡見山校舎」です。
 しかし、一文字目の「岡」は一致しますが、次の「産」とも読める字が…。最終的には、「岡臺山」で落ち着きました。「岡村にある台地状の山」とすれば、何とか意味が通りますから。

不動堂は、(何と)諏訪大社下社の宝殿 29.11.28

 高島小学校のグラウンド下に「金山稲荷」があるのを知って、再び岡村を訪れました。願い事をせずに拝礼した謙虚さがご利益に結びついたのか、帰り道で出会った男性から「不動堂は、82年前に諏訪大社から移した」と耳寄りな情報を得ました(どうして[8“2”]なのかが気になりましたが)。

大日大聖不動明王(不動堂) 移築したという御堂を、改めて眺めました。大棟の鬼板と正面の白幕に「諏訪梶」があるので、諏訪大社でも上社からということはわかりますが…。
 自宅でこの写真をリサイズしている中で、「諏訪大社の宝殿ではないか」と閃きました。しかし、見馴れている上社のものとは異なります。「それなら、下社の宝殿?」ということになりますが、実は、下社の宝殿は瑞籬の中にあるので具体的な形状は頭に入っていません。

諏訪大社下社「秋宮の宝殿」 HDに、平成17年に撮った秋宮の宝殿がありました。これで不動堂は旧宝殿とわかり、一般には設置しない扉も、内陣の扉を残したものと合点しました。
 しかし、これなら、下社縁(ゆかり)の建造物として「明神梶」を掲げるべきという新たな疑問が生まれました。

明神梶
鬼板も「諏訪梶」

 その解決策がありそうな「82年前」を調べると、昭和10年でした。直前の式年造営御柱大祭(御柱祭)が昭和7年ですから、何年か経った後に、解体された宝殿を移築したことになります。その経緯は不明のままですから、何かの事情があったと考えるしかありません。

再び不動堂の鳥居

不動尊と金山社 絵図によれば、不動堂(尊)には明治初期まで鳥居があったことがわかります。松沢義章さんは、それを御射宮司社の鳥居と考えましたが、その間「36m」は離れ過ぎとしか思えません。むしろ、金山社「表参道の鳥居」だったものが、時代のいたずらで「不動堂の鳥居」と伝わってしまったと考える方が自然です。
 その金山社ですが、前出の『高島城と諏訪の城』では、地番図に重ねて「金山社跡」を表記しています。そのため、今回は「跡が残っているのか・すでに宅地の下なのか」を確認する再訪でした。

金山社参道?
金山社跡space岡村北沢の道

 しかし、袋小路の最奥とあって、静まりかえっている住宅の間に延びる道に入るのはためらわれ、眺めるだけに終わりました。
 金山社は、明治期の神社合併で手長神社か八劍神社に遷された可能性があります。また、個人の家に屋敷神として残っていることも考えられます。その行方は今後の課題となりますが、わかり次第追記することにしました。