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旧富部村の御社宮司社「藤森稲荷」 下諏訪町富部

 「変なタイトル」とツッコミを入れられそうですが、まずは、最後までお読みください。

富部村のミシャグジ社

富部村の御社宮神
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

 『諏訪藩主手元絵図』にある〔富部村〕を開くと、「御社宮神」が書かれています。甲州街道と諏訪湖の間・一里塚と高木村境ですから、場所が特定できそうです。
 しかし、下諏訪町民でない私は、平成の地図を眺めても、ため息をつくことしかできません。取りあえず、大ざっぱな位置を記憶に留めました。

富部の休石

 下諏訪町誌民俗編編纂委員会『下諏訪町誌 民俗編』にある写真を見て、「これは休石」と直感しました。キャプションに「休石」を確認してから、本文を読んでみました。

休石 富部(とんべ)地区には漁師や湖畔に農地を持つ人たちが、高浜湾や鰻沢(うなぎざわ)の舟泊(ふなと)へ下る道がいく筋かあった。「フナミチ」と呼ばれる道筋で字名も残されている。家々の間を通ったり、畑のクロ・田圃の畦道などの狭い道で、魚取りの道具や農作物を背負って通る道で、所々道の真ん中に土坂石(つっさかいし)を立てて「休み石」が設けられていた。重い荷物をショイコで背負ったままひと休み出来るように備えられたものである。
〔交通〕から[ムラウチの道]

 「休石」は(私には)貴石にも相当しますから、「さっそく拝観せねば」と気負います。

 手掛かりを求めて『町誌』の付図〔里の字名分布図〕を開くと、「二ヶ所の舟道・鰻沢・ウナギ沢」が見られます。しかし、「明治17年の図面を元に」とあるので、現在の道には対応していません。
 また、『町誌』は平成12年の刊行ですから、道の真ん中とあっては、すでに抜かれて撤去されている可能性があります。それでも、取りあえず、空振りを覚悟で探すことにしました。

休石からミシャグジが出た 30.2.9

 休石を探して、甲州街道から諏訪湖に向かう車両不可の小道をアミダクジのように歩き、高浜のローソンまで来ました。ここで諦め、その横にある昔ながらの小路から戻ることにしました。突き当たりから右に上がる石段を登り切ると、国道上に立ちました。その向こうに小路の続きが見下ろせるのを確認してから、帰り道となる踏切を目指しました。

 狭い路側帯の左側通行とあってガードレールに寄って歩くと、線路を挟んだ対岸に鳥居が見えます。

藤森稲荷

 甲州街道の下という立地から、富部の御社宮神と直感しました。

藤森稲荷 踏切を渡って戻ると、民家の敷地境に枯れ草に覆われた石段がありました。
 鳥居の正面に余裕が無いので、隣地へカメラと腕を不法侵入させて撮ったのがこの写真です。周囲に切株が幾つかありますから、かつては、こんもりした杜に覆われた神社であったことが想像できました。

藤森稲荷 石祠の左右に木祠がありますが、ご覧の状況です。玉垣も傾き倒れ込んでいる部分もあります。ただ、御柱は今回(平成28年)更新されたことがわかります。
 左方に回り込むと石祠に文字があり、「和田村」だけが読めた二行の銘は自宅で解読することにしました。

 休石の発見にはまだ希望があるので適当な小道を選ぶと、畑で剪定しているお年寄りがいます。事情を説明して問い、「(予想と違う)稲荷神社で小和田(こわた)の人のものだが、名前はわからない。その辺りを稲荷平と呼ぶ。あの家は小和田から来た人。ここは、高島城から見ると北に当たるので“きたへい”と言う」と聞き出しました。
 休石は見つからないまま、整備された鎌倉街道から富部の鎮守社若宮を経て、駐車場にした秋宮へ戻りました。

「小和田村・藤森利左衛門」

小和田村藤森稲荷 唯一の手掛かりとなる石祠の写真を眺めました。しかし、右は「和田村」で間違いありませんが、左の一文字が「森」(らしい)と読めるだけで…。 

 「何かヒントが」と、『町誌』の〔下諏訪町の文化財〕から[石造文化財]を参照しました。石祠一覧に「富部」を探すと、所在地「富部稲荷平」があり、摘要に「藤森稲荷社(旧御社宮司社)」とあります。

富部村 「稲荷平」が耳と目から入ってきたので〔里の字名分布図〕を確認すると、左図の如くありました。これで、休石の代わりに見つけた神社が「藤森稲荷社」と確定しました。
 集まった情報を基に再び銘を眺めると、…日陰になった部分のみに文字が現れていたことに気が付きました。それを踏まえて睨み直すと、「小和田村 藤森◯◯」となりました。

 これで、気にかけていた「富部の御社宮神」が、この「藤森稲荷」であることが確定しました。ある時期に軒を貸した稲荷神に、本家の御社宮神が乗っ取られたということになります。御利益があるのかわからないミシャグジでは無理もないと言えますが、すでに過去の神とあっては、これも宿命でしょうか。

 気になる祠の銘「◯◯」ですが、眼精疲労に耐えきれず「藤森某」で終わらせようとしました。それでも、私の気が収まらないので、何とか「利左衛」と読み、「藤森利左衛門」をフルネームとしました。

「利左衛門」は「彌(弥)左衛門」

 後日、長野県下諏訪町教育委員会『石造文化財 其二』で、「藤森左衛門」と確認できました。しかし、私の欲目もあり素直に応じることができません。ところが、「利」では文字の中心が左へずれることに気が付きました。「弥」とは読めませんが、画数が多く彫りが浅くなる「彌」なら同意できるとしました。

稲荷平と網干場

 『下諏訪町誌 中巻』に「富部村に小和田村の飛地がある不思議」が書いてあったので、一部を転載しました。

富部村高 富部村の名寄帳で目につくことの一つは小和田村・高木村の人の持池が多く、それが特に一冊の名寄帳にまとめられていることである。高木村は水田を求めて入り込み、小和田村は稲荷平の網干場の地を占めていた。嘉永二年の名寄帳によれば、小和田村関係は藤森吉兵衛二筆二斗五三(中略)など六一人が一四四筆(田は一筆だけ)を持っている。みな稲荷平で、稲荷社を中心としており、かつて網干場の名で獲得し、順次に分けて鍬を入れたものである。
〔近世村落の組織と運営〕から[村高]

 残念ながら、利左衛門さんの名はありませんでした。61人の内の一人ということでしょう。

 富部村にも御社宮神があった。稲荷平(小和田村の網干場)の地で、今は藤森稲荷として祝神に替わった。
〔庶民の信仰〕[信仰]

 小和田史編纂委員会『小和田史史料年表』の天明元年(1781)の項に、祠建立についての記述がありました。“この年”ではないので、天明年間ということでしょう。

 この頃、富部村稲荷平の小和田稲荷社の石祠が建立される。富部村・高木村にかけての小和田村網干場の一角で、御社宮司社に合祀されたと伝えられ、現在でも藤森まきの一つにより祭祀が続けられている。

旧国道時代の富部

藤森稲荷
国土交通省『国土画像情報』

 たまたま保管してあった昭和23年当時の航空写真を載せました。これを見ると、藤森稲荷社の周辺は一面の畑地であったことがわかります。その中で一軒だけある家屋が小和田から移住した利左衛門さんの末裔と考えましたが、フェンスで区切られていたのを思い出して、(直接には)関係ないことがわかりました。