『諏訪藩主手元絵図』に載る〔池之袋村〕を眺めると、まさに「袋」村です。その村名を意識して描いたことを考えてしまいます。
その東方に位置する「氏神」が池生(いけのう)神社で、社前に池が描かれています。
平成20年に、富士見町でも山梨県境に近い、その名も「境」にある諏訪神社を参拝しました。その折に、高森観音堂−井戸尻遺跡−池生神社と足を延ばしました。
それ以来となる池生神社ですが、記憶に残る一之御柱を右に見て石段へと向かいます。
今回は、社頭にある『池生神社概歴』を初めて読んでみました。ここでは、一般的な祭神の説明は割愛し、神社自体の由緒を転載しました。
「詳細は不詳」とあるので「平安時代に遡る」云々に目くじらを立てることはしませんが、「池之袋村」は「境方十八ヶ村」として、戦国時代に甲州(山梨県)から信州に編入した村です。そのことに留意して読まないと、以降に出る権祝(ごんほうり)矢島氏との関係がおかしなものとなります。
石段を登り切ると、下から見えた拝殿兼覆屋は目の前です。その要因は社地が狭いことにありました。また、遠目では鬱蒼とした木々に包まれた社殿と見ましたが、背後に『池生神社概歴』に書かれた中央本線とそれに並行する道が横切っているので、明日は五月という陽光も加わって明るく開けていました。
池生神社とは切り離せない「池」として、冒頭の絵図を拡大してみました。現在はその片鱗も残っていませんから、「どこにあったのだろうか」と、探究心がムラムラと湧いてきます。
『地理院地図Vector』を使い、空中写真をベースにして道路・建物・等高線を重ねたものを用意しました。次に〔自分で作る色別標高図〕を使って0.5m毎に色分けすると、最低標高893.5m−894mで二つの閉塞線が浮かび上がりました。
分断していますが、かつては一つの池だったと思われます。上図の矢印は、以下の写真の撮影方向です。
現地では「一面にほぼ平ら」という印象でしたが、かつては参道の向こう側に『諏訪藩主手元絵図』に描かれたような池があったことがわかりました。
諏訪史談会編『復刻 諏訪史蹟要項 富士見町境篇』〔池之袋村〕から[池生神社]と[古屋敷]の一部を転載しました。
1.抜け穴伝説はこの地にもあった。
当地の水は、甲州小淵沢村の村名の起源をなす「小淵」の水と相互に通じていると言われていた。しかし、今は殆んど忘れられてしまった。
2.椀貸伝説もこの地にある。
俚人(りじん)が膳椀を揃えて借用したいと思う時には、この前日にこの池に参り、幾人前でも必要の数だけを依頼しておくと、当日は依頼したとおりの員数を揃えて整然と据え置かれてある。俚人はこれを使用した後に元の如くに返済するのであった。ところが或る日に借用した椀膳の一つを紛失してからというものは、もう依頼しても効果がなかった。
又、一説には、この池で蔦木(つたき※蔦木村)の人が肥桶を洗ったので、それから出ないようになったとも云われている。
現在池ノ袋部落の東方に池生神社がある。この辺り一帯は凹地で、小字入ノ窪と称し、就中(なかんずく)神社の前の窪地を池の平(いけのたいら)又は池(いけ)という。これ池生神社境内に古池あるために起こった地名であろう。この池の平と称する地域には往古部落の存在せしという口碑が残っている。その一つの証拠には、現に村の最東端に存する家を「西の家」と呼んでいる。これは、部落がもとこの池の平にあった証拠ではなかろうか。
県立歴史館『長野県明治初期の村絵図・地図アーカイブ』から〔池之袋村(図)諏訪郡一村限絵図〕の一部をお借りしました。
明治7年作成ですから、この頃でも池は無く「芝地」として広がっていたことがわかります。
池生神社には「権祝」の記述が見られるので、延川和彦著/飯田好太郎補『修補 諏訪氏系図 続編』から〔宮社諏訪神社権祝矢島家略系(同上抄本)〕の冒頭部分を転載しました。
健御名方神ノ御子ナリ、池生若御子神世々相副来ル、又大神ノ祭紀ヲ掌(つかさど)ルト云フ、此間数代アリト雖(いえど)モ不詳、神若丸二至テヨリ十二代ヲ経テ天永二年繼重磯並辺ニ営居テ祝職ヲ継グ、
補ニ云ウ 諏訪郡境村内池之袋鎮座、池生神ノ由緒ニ権祝神姓之遠祖也、旧記ニ信濃国諏訪郡池之袋ニ社アリ、元慶五年十月従五位下ヲ授ク、夜神磯魚申下シトアリ、三代実録元慶五年十月九日申申受二信濃国正六位上池生神、御厩中央御玉神並従五位下一云云、
池之袋村は、元々は山梨県の村です。諏訪郡に定着した以降に、「池に関連がある神」を探した結果、池生神が該当したことが考えられます。私は、神社に祭神を併記することが求められた結果、有名処の神様を担ぎ出したと見ています。