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一本柳神社と「北斗神」 下諏訪町赤砂

■ 茅野市に古碑「鎮守北星大神祇」があり、諏訪市に「北斗神社」が鎮座しています。下諏訪町にも「南無北斗神」碑があることから、何か繋がりがあるように思えますが…。
北斗神社
(撮影30.2.9)

 古新聞になりますが、平成16年8月22日の『湖国新聞』に、「南無北斗神」と刻まれた石碑の写真を見ました。記事は蟹江文吉さんの寄稿『下諏訪町赤砂の話』で、写真に「赤砂一本柳神社北斗神碑石」とあります。
 正に「オーーー!! 下諏訪にも北斗神社が…」ですから、自(おの)ずと現地へ足を運ばずにはいられない状態に陥ります。ところが、頼りとするネットでは、一本柳神社の鎮座地が見つかりません。唯一あったのが下諏訪町『町の歴史的風致及びその維持向上の方針』ですが、添付の地図は解像度が低く「あの辺り」としかわかりません。

 御渡(みわたり)拝観式が終わったばかりで、しばらくは極寒の野外に出ることはないとしていました。しかし、「一本柳神社は赤砂公会所の近く」と睨んだことで、ついでに、続く寒さで成長した御神渡りを見物するのも悪くないと考えました。

一本柳神社 30.2.9

 ストリートビューで目星を付けていた鳥居と祠は、…稲荷神社でした。「公会所の敷地に特定の神社があるのは、まずいんじゃないか」と思いましたが、分離できない由緒があるのでしょう。当てを求めて砥川の堤防道路に上がると、折良く向こうから犬を二匹引き連れた婦人が…。

一本柳神社

 「橋を渡ると、果樹園に降りる道がある」との話通り、県道からは、葉が落ちたこの時期だけ見えるという一本柳神社の鳥居が望めました。

一本柳神社 背後にある、注連縄が掛けられた神木が「柳」なのかはわかりません。それは芽吹きまで待つとして、本殿の周囲には道祖神などの神号碑が並んでいます。何れも、近隣からここへ移転させられたものでしょう。

 社殿の左にあるのが、冒頭に挙げた「南無北斗神」です。「南無」には違和感がありますが、「南無八幡大菩薩」の例もあるので許容範囲でしょうか。並記された「両社大明神」は、今の諏訪大社の上社と下社です。また、この写真ではわかりませんが、両側面に「一本柳百姓家元祖・玉木勘左衛門廣長」とあります。

北斗神
(画像処理をしてあります)

 裏に廻ると、土橋さんと松沢さんの下に「譲」の大文字があります。ここで、北斗神に対面したものの、この碑が単なる神号碑ではないことを思いました。
 改めて表に廻ると、裏とは異なった書体であることに気が付きました。こうなると背面の銘は後付けのようにも思え、何か複雑な経緯があったことを窺えさせます。しかし、この場では調べようがありません。

 風が無いので寒さは感じません。砥川沿いから民家の中に延びる道を選ぶと、分譲住宅地のように比較的新しい家が並んでいます。左右に目を配っても歴史を感じさせるものがまったくないので、赤砂の集落は新しい成立かもしれないと思えてきました。
 御神渡りですが、公園の駐車場が満杯なのと予想外に多い人の往来に嫌気が差して、湖畔に出ること無く引き返しました。

改めて一本柳神社

 下諏訪町誌民俗編編纂委員会『下諏訪町誌 民俗編』〔第十章 まつる〕から、[一本柳神社]を転載しました。

 赤砂で祭る神社で、祭神は諏訪明神・豊受大神(豊受比売大神)・津島大神(素盞鳴尊)・菅原大神(菅原道真)・多賀大神(伊邪那岐命、伊邪那美命)である。
 赤砂は江戸時代の享和四年に藩の許しを得て新田開発された地区である。当時湖畔の原野に一本の柳の大木が茂っていた。開拓の起点であったのかもしれない。
 昔、砥川が氾濫したとき、上流から一枚の「お札」が流れてきて、この柳の木の枝にひっかかった。「お札」が柳の木に付いたということは、この地を神域とし、守護神を祀れという神のお告げであるかもしれないということで、この地に産土神を祀ったという話を聞いたことがあるという人もいる。
 現在、祠の中には諸々の神が祀られているが、境内にある玉木勘左衛門の碑から、初めは「諏訪明神」と「北斗神」を祀ったことがわかる
 一方、赤砂には山之神、三謝宮寺(御社宮司)、津島、三峰の各神を祭る講があった。それぞれの講の祭りをやっていたが昭和五年の申し合わせで「赤砂全体の祭典は一本柳の祭典だけとし、他祭典は講社ですること」と決めた。(後略)

 これで、「聞いたことがあるという人もいる」という表記ですが、“一本柳”神社の由緒がわかりました。ただし、原初に「なぜ・どこから北斗神を勧請したのか」が書いてありません。

一本柳神社
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

 「一本の柳の大木が茂っていた」とあるので、『諏訪藩主手元絵図』から〔友之町〕を開くと、「一本柳木」がありました。人家は描かれず、砥川は“枠外”を流れていますから、まだ開発前の状況とわかります。
 この一本柳ですが、『下諏訪町誌 中巻』の〔新田や汐の開発〕に、「右側石垣の向こうに一本柳の巨木の切株がみえる(昭和38年8月の台風に倒れた)」とありました。
 関係ありませんが、その下に「花岡分」とあります。旧花岡村の飛地ですから、網干し場ということでしょうか。

改めて「南無北斗神・両社大明神」

 碑は、「享和二壬戌(1802)被仰付(おおせつけられ)、辛未(文化八年・1881)二月上諏方町土橋源蔵安元・松沢文蔵(に)譲」と読めました。これを、きっかけとなった新聞を再読(拾い読み)し、「藩の許可を得て赤砂を開発した玉木勘左衛門だったが、私財が底をつき、土橋源蔵と松沢文蔵にその権利を譲渡した」と書き替えてみました。

 図書館で、赤砂調査委員会『赤砂のあゆみ』を見つけました。しかし、内容は『下諏訪町誌』と同じなので、期待した「北斗神」についてはわからず終いでした。