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ガラガラ稲荷 諏訪市中洲下金子 31.4.20

 『諏訪郡諸村舊蹟年代記』に、「一、下金子村金子鎮守社八幡宮…」で始まる一文があります。「からから物」が意味不明ですが、取りあえずは唐物(中国の物産)と考えました。

又東南之方からくの字点稲荷社有、これは昔三月酉祭何国(いずこ)より参候哉からくの字点物商人参り、口論及び打殺し、其祟り有之故、からくの字点稲荷と祭ると云、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 中洲公民館刊『中洲村誌』〔下金子村を行く〕に、この稲荷社の勧請記録がありました。

ガラガラ稲荷 八幡社東南、宮川の土手にある石祠で、文政(※安政)年間、村の若者達が、京都の吉田家へ金二分納めて勧請してきた稲荷で、「諏訪郡諸村旧蹟年代記」の八幡宮の項に、

 ……東南の方がらくの字点稲荷社有、これは昔三月酉祭何国より参候哉からくの字点物商人参り、口論に及び打殺し其祟り有る故、がらくの字点稲荷という、

とある。

 両書から、「御頭祭見物に出掛けた下金子村の若者連が、旅の露天商を撲殺してしまった」ことが読み取れます。この事件は、若者達に圧倒的に有利な裁定で落着したと思われます。それに対して、口無しとなった商人が祟りで逆襲に出たということでしょう。

ガラガラ稲荷参拝 31.4.6

 鎮座地「金子八幡宮の東南」は、「中金子村」に属するという疑問があります。そのため、対岸から御柱を見ていて目を付けていた石祠がそれでないかと考えました。方位は西に当たります。

稲荷社
背後は宮川の堤防

 現地で祠の正面に宝珠の透かし彫りがあるのを確認し、これが「からから(がらがら)稲荷社」と独り頷きました。
 しかし、近隣の家は応答がなく、「これが『舊蹟年代記』に載る稲荷社」と紹介することができません。下金子にはもう一つの目的があったので、一旦この場を離れました。

↓御頭御社宮司社小泉寺
ガラガラ稲荷

ガラガラ稲荷 三週間前に訪れた下金子御頭御社宮司社の境を確認しようと、再び宮川の堤防(土手)を歩きました。
 その祠が見える場所に来ると、直下の畑に石祠と標柱があることに気が付きました。読むと、何と「ガラガラ稲荷神社」でした。

ガラガラ稲荷
前部の庇が短い流造(向拝柱の跡あり)

 正に狐につままれたと言うしかない、不思議な登場の仕方でした。振り返ってみれば、前回は御社宮司社を眺めながら近づいたので、灯台下(もと)暗しの状態だったことがわかりました。
 結果として鎮座地は「金子八幡宮の“南”」だったことになりますが、『中洲村誌』は『諏訪郡諸村舊蹟年代記』の記述に倣ったということでしょう。

勧請証書

 『中洲村誌』に勧請証書の写真があります。不鮮明ですが、ネットの類似写真を基に「信州諏方郡下金子村/若者中/右依願/賀良々正一位稲荷大明神/神号所申調如件/神祇管領長上家/安政二卯年八月/公文所」と読んでみました。

 私は、諏訪にある「巻の神社は勝手に有名処を勧請した」というイメージを持っていました。しかし、この勧請証書の存在で、それらが本社から一定の手続きを踏んで正式に勧請していたことがわかりました(その多くは残っていないと思いますが…)。
 当時で二分+受領の路銀+祠の作成という大きな負担です。ここまで書いて、そうまでして勧請したのは、祟りを鎮めるというより、若気の至りでは済まされない若者達の深い後悔の念がそうしたと考えるようになりました。