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三沢の藤島神社は藤森氏の氏神 岡谷市川岸三沢 1.9.21

 藤島神社の由緒にまで(空想が)発展してしまった話を取り上げました。ネタ本は、『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』(以下『年代記』)です。

予備知識「富部村の一里塚と網干場」

富部村 諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』にある〔富部村〕を開くと、「一里塚」が書かれています。また、中央の「御社宮神」については以下の記述があります。


 この頃、富部村稲荷平の小和田稲荷社の石祠が建立される。富部村・高木村にかけての小和田村網干場の一角で、御社宮司社に合祀されたと伝えられ、現在でも藤森まきの一つにより祭祀が続けられている。
小和田史編纂委員会『小和田史史料年表』

 小和田から移住した藤森氏が、網干場の辺りで暮らしていたことがわかります。

留部村と富部村

 ここからが本題となります。まずは、『年代記』にあるこの記述です。

一、三澤村…元留部村一里塚辺(あたり)網干し場より同村出ル…

 取りあえず「とめべ」と読んだ留部村は、諏訪には存在しない村です。しかし、「一里塚と網干場」から、富部(とんべ)村の間違いであることが想像できます。その富部村を同書に求めると、なぜか「一、富部村…」の項がありません。「ならば富部村だけでも」と探せば、天正と延宝の検地御高帳に名を連ねていました。一方の留部村ですが、「これは無いだろう」としていましたが、…ありました。

一、安政四丁巳年(1857)…〔津高村々三手神領〕
…大和村・高木村・留部村・湯之町

 このラインナップは現在の下諏訪町です。検地御高帳も同様なので、「留は富の誤記」として以降は下諏訪の富部村として表記します。

 『年代記』から、改めて関係する部分を挙げてみました。因みに、この書に見られる「出ル・引ル」は、「他村へ移る・自村に戻る」という意味合いで使われています。

一、三澤村
元留部村一里塚辺網干し場より同村出ル、荒神社氏子也、近頃村中と論にて村一統ニ成、

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第三巻』

 三沢村にも一里塚があり天竜川の漁業もありましたから、「同村」の扱い如何によっては「三沢村(の草分け)は、留部村から出た」とも読めます。しかし、『年代記』は幕末の刊行ですから、「近頃」とある年代からみて「荒神社の氏子は、富部村から移住してきた人。三沢村と話し合って村の一員となった」と解釈してみました。

藤森氏の氏神「荒神社」

藤島神社
三沢村
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』〔三沢村(部分)〕

 右端の手前に張り出した尾根が、旧岡谷村との境です。三沢村では東の縁(へり)に当たる公神(荒神社)の周辺に、富部村から移り住んだ人の土地があったと考えました。
 ここで、富部村から来た人々を藤森氏とすれば、現状では「=荒神社」ともとれる藤島神社ですから、『藤島神社は藤森氏の氏神』という図式が成立します。

藤島神社は荒神社

 ここで、荒神社が藤島神社とも言われている不思議さが、荒神社→藤森荒神社→藤森神社→藤島神社として説明できます。つまり、今ネットで広く認知されている藤島神社は、幕末の本(論考)や伝承により、また『諏方信重解状』に出る文言「藤諏方之森」の影響もあって「橋原村の洩矢神社に対応する藤島神社」としてすり替わってしまったということです。
 旧三沢村では「洩矢神社」との関係には消極的ですから、ここまでの話を、あながち我田引水モノと片付けることはできないと思います。