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森ノ木社 茅野市塚原 31.4.27

 以前『織田信長と明智光秀と法華寺』をアップした際に、『諏訪藩主手元絵図』に明智光秀公関連の地名が三箇所載っているのを紹介しました。

森ノ木社
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』〔矢ヶ崎村・塚原村(部分)〕

 その時に、松の大樹二本に「森木」と添え書きがあるのを見つけ、これは神社の可能性が高いと見ました。『手元絵図』に載る独立樹は、小規模な神社として描いている場合があるからです。

 この流れで『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に目を通すと、

一、塚原村
…立石北の方沢に明智光秀公陣場屋敷と云、今其辺裏道通(智)屋敷跡拾八軒、今村之家裏に森之木と云名所有、

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

とあり、ここでは名所として書いていますが「森之木」がありました。

 中世の神社事情がわかるという、諸神を勧請する『祝詞段』があります。ここに詳細不明の「守木」があるのを知っていましたから、改めて書き出してみました。

上原ノ郷ニ、チカト(千鹿頭)若宮・久須井十三所(葛井神社)・上下御社宮神・矢ヶ崎鎮守・守木・大歳(大年神社)・御サン所ノ明神(御座石神社)・粟澤鎮守、…

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第三巻』

 矢ヶ崎鎮守(現在の塚原鎮守神社)に続いての守木ですから、森木・森ノ木・守木(※『根元記』では「森木」)が何れも神社名で、中世にはすでに存在していたことがわかりました。

森ノ木社参拝 31.4.22

 長らく鎮座地を見つけられずにいましたが、ここに来て「ちのスカイビューホテル」の敷地にあることがわかりました。

森ノ木社

 ヤマダ電機の北側から、道向こうとなる森ノ木社を撮ってみました。諸々の前景と背後のホテルでゴチャゴチャしていますが、立地を説明するにはこれがベストとしました。見方によっては、ホテルの守護神のようにも思えてしまいます。

森ノ木社 上写真では右側になる、「松本日産」から覗き込んだ境内の核心部です。その間を横切る側溝の蓋が、『手元絵図』にある川でしょうか。
 南向きとなる石祠に近づくと、何か様子が変です。


森ノ木社 身舎の前面に神号「森木社」を彫った形式と説明がつきますが、のっぺらぼうが顔に「(私は)のっぺらぼう」と書いて現れたようなものですから、何かしっくりしません(あくまで個人の感想です)。
 側面に文字が確認できますが、彫りが浅いので読み取れません。基台の銘板を読むと、「志主/平成二十年度/塚原区氏子総代」として五人の連署があります。この年の氏子総代5名が基台を寄進したと想像しでみました。

 社頭の案内板を転載しました。

森ノ木社
 このあたりは、太古から人々が住んでいて、むらが形成されていた。このことは、むらの首長の墳墓である古墳(塚)が多いことからもわかり、塚原という地名の由来もここに起因する。
 古い時代は、神を祀るところを森といった。森ノ木社の起源は明らかではないが、森ということばを今に伝えていることから、その創立は古いとしたい。
 史料によると、嘉禎三年(一二三七)の『祝詞段』に森ノ木明神とあるから、鎌倉時代には、すでにこの地に鎮座していた。
 昭和五十七年阿弥陀堂遺跡の発堀によって、平安時代の集落跡が発見されたことから、森ノ木社の鎮座も鎌倉時代以前にさかのぼるとしてもよい。
 享保十八年(一七三三)の『諏訪藩主手元絵図』には、森ノ木が村の中央に特筆して描かれているから、いかに大切なところであったかがわかる。
 祭神は不詳であるが、森ノ木明神とあるので、原始信仰的発生にもとづく古い神と考えたい。

 ヤマダ電機へはよく来るのですが、この場所に古社があったとはまったく気がつきませんでした。

おまけ

森ノ木社 国土交通省『国土画像情報』から、昭和51年撮影の航空写真をお借りしました。
 まだ田圃に囲まれていた時代で、下(南)のうねった線が現在もそのままの形で残っている用水路とわかります。

 気になって調べると、森ノ木社の周辺に「森ノ木」に関連した字(あざな)が計六箇所残っていました。それだけ森ノ木社の存在が大きかったということでしょう。

森ノ木社
茅野市教育委員会『茅野市字名地図』(部分)

 この書は平成2年の刊行です。現在の高規格道路はすでに開通していますが、周囲はまだ田畑であるのがわかります。左の斜めの小道が、ヤマダ電機と屋外駐車場を分断している旧道と、今理解できました。

山ノ神

山ノ神 冒頭に挙げた『手元絵図』ですが、左端に「山ノ神」があります。「上原境」に心当たりがあるので調べると、以前「こんな所に神社が」と参拝していました。
 手持ちの写真が無いので、ストリートビューの画像を用意しました。現在はこの有様ですが、『手元絵図』にも載る由緒ある神社とわかりました。