『諏訪藩主手元絵図』の〔西山田村〕に、「御社宮地」があります。土地毎に多くの名があるミシャグジですが、西山田では村内で言い(書き)慣わしている名称をそのまま提出し、藩もそれを受け入れたのでしょう。
私には場所が特定できないその御社宮地ですが、東隣に「中屋村」とあるので、「中屋区公民館」から西側をストリートビューで走ってみました。しかし、見つからないままで終わりました。
その後、薬師堂が「中村薬師堂」として残っているのがわかったので、地図と『諏訪藩主手元絵図』を見比べてみました。その結果、地図では常現寺川に隣接していますが、御社宮地の南を通る道が特定できました。
さっそく尺取り虫のようなストリートビューで走ってみると、現地は県道の新設で大きく変わっており、すでに移転したかと悲観的になります。見つからないまま一つ内側の道に入ると生垣に囲まれた神社が現れ、これが御社宮地と確信しました。
念のために、国土交通省『国土画像情報』から、昭和50年の航空写真をダウンロードしました。それに衛星写真を重ねると、当時と同じ場所であることが確認できました。
ここまでが、『諏訪藩主手元絵図』にある御社宮地の鎮座地を特定した経緯です。
その後、諏訪史談会『諏訪史蹟要項十 長地村篇』の踏査図〔長地村 中屋・中村・横川・東堀〕を見て、この近辺に御社宮司社が二社あることを知りました。
そこで、「御社宮地」を含めた三社の鎮座地を、衛星写真に貼り付けてみました。
これを見ると、“ミシャグジトライアングル”とも言える形になっています。その中心に立てば、何かが…。
赤屋根の木祠が二棟あります。左の祠に幣帛が見えたので、ズーム大にしたカメラで覗くと「勧請御射宮(司)」と読めます。初めて見た“ミシャグジ様の具体的な姿”に、「おーー!!」と声なき感動が…。西山田のミシャグジは、平成最後の年でも健在でした。
社号標が無く、鳥居と玉垣も無銘という中で御社宮地社と確認できましたが、代わって、右の一回り大きい祠が気になります。確率からは稲荷社と思いますが、中は空で、よく見かける狐の置物もありません。
祭神を確認するために、新築が多い中でも古そうな家に声を掛けました。県道の新設で隣地に移転したと断った上で「道向こう(の御社宮地社)は地区が違うのでわからないが、おぶすなさま(産土様)と呼んでいる」と返ってきました。「城口商店で訊いてみたら」と勧められましたが、庭で開花している福寿草を褒めながら礼を言い、今日はこれまでと引き上げました。
調べると、御社宮地社裏の道が、同じ「長地」でも「梨久保」と「鎮」の境であることがわかりました。
出早雄小萩神社から歩き始め、昼時の混雑前という時間に、テンホウ長地店が見えてきました。
一軒おいた隣に建つ鳥居を確認してから、多分20年ぶりという担々麺を注文しました。岡谷市に通勤していた頃は、度々お世話になりましたが…。
実は、神社全域に文字が一つも無かったので、こんな私事(わたしごと)を書いてしまいました。それでも、祠は流造ですが、見馴れないために取って付けたように見える円い大棟に新鮮さを感じた、と紹介してみました。
高規格道路とあって優先の格付けに大きな差があるのか、異常に長く思えた信号が青になり、ようやく、私には未知となる古道に足を踏み入れました。この神社も道沿いにあるので、遠くからでも鳥居が見えました。
祠の裏が民家なので、直撮りを避けようと回り込んだら、古い木祠が置かれていました。祠を新調しても、何年も慣れ親しんできたものですから、解体廃棄することができないのでしょうか。鳥の営巣には格好の施設と見えて、古巣が取り出された状態で置かれていました。
この神社も、『諏訪史蹟要項』に記述された以外の情報は得られませんでした。
三社を巡拝する中で、生垣の中に黒い石があることに気が付きました。
当主の手製と思われる案内板を読むと、「休み石 荷を背負ったまま休んだ石」とあります。「休石」の彫り込みがないので、人目が無いことを確認してから、枝葉をどかして裏側を覗き込みました。無駄な行為となりましたが、大きさ形から案内板を信用することにしました。