『小井川区誌』に、祝殿社の鎮座地を重ねた〔諸社分布図〕があります。(もう7年も経ってしまいましたが)浦野太郎社を調べる中でそれを参照したのですが、そこに「御社宮司社」があったのを思い出しました。うろ覚えの場所をストリートビューで走ってみると、…お稲荷さんカラーをまとって縦列鎮座したかのような神社が現れました。
地図の表記は「若宮八幡社」ですから、どちらかが御社宮司社となります。
『諏訪藩主手元絵図』の〔小井川村 若宮新田〕にある「伊奈道」が、県道14号です。古今の地図を見比べながら割り出した部分を眺めると「八幡宮」があります。また、「若宮新田」は八幡宮の周辺にある狭い区域ですから、この神社が若宮八幡社となりました。
境内右にある案内柱が、「ここは稲荷社ではありません。御社宮司社です」と訴えるように立っていました。以下は、裏にある説明です。
祭神 御社宮司神・土地の精霊、地主神
建御名方神の御子神のうち、国土開発に功のあった十三神を御社宮司神と称したと伝えられる。
私は「御社宮司神(土地の精霊・地主神)を、(後世になって)国土開発に功のあった十三神と称した」とする逆の考えですから、この説明には違和感があります。しかし、「伝えられる」としているので許容範囲としました。
石祠に銘はありませんが、かなり古そうな形式に見えます。その中にある幣帛の紙垂にやや退色が見られますが、現在も祭祀が行われているのがわかります。
「それにしても…」と感じてしまうこの稲荷色は、旧小井川の村社である賀茂神社の玉垣を始め、巻の神社にも多く見られます。「小井川カラー」とでも言うのでしょうか。
小井川区誌編纂委員会『小井川区誌』〔宗教と信仰〕から、〔御社宮司社(みしゃぐじしゃ)〕の一部を転載しました。
「境内社」は「境外社」の間違いでしょう。また、どこから難読の神様をお連れ申したのかという素朴な疑問もありますが、取りあえず、ここで引用している釈義を原本から転載しました。
神使が、前宮から各地の湛地を廻りながら小井川まで来たことになります。ここで、『年内神事次第旧記』の本文も挙げてみました。
一、酉日(とりのひ)ハ大御立座(おおみたちまし)、(中略)
一、下宮神事、鵲宮湛・馬場上湛・伴町湛・小井河も、何も御神事、夜湛・昼湛も違う所ハあるましく候、
以上は中世の話です。しかし、その後に勃発した戦乱で、多額の祭費を必要とする廻湛は廃れました。その代わりとして、ミシャグジが常駐する祠を湛の地に設置したのが現在ある御社宮司社ということでしょう。
御社宮司社が前面に立つのを押さえているような若宮八幡社殿ですが、ここでは従となるので、『小井川区誌』から由緒のみを転載しました。