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「おくはざま」と御鍬社 1.6.8

 『有賀の七御社宮司』に、コラムとして〔「おくはざま」小考〕を書きました。その後、舌足らずな部分があることに気が付き「どうしようか」と気になっていましたが、ここに、「御鍬社」を加えて再構成してみました。

「おくはざま」

■ 誤読を避けるため、「ザ・ざ」を「サ゛・さ゛」と表記しました。

 私が手引きとしている一書に、小口伊乙著『土俗より見た信濃小社考』があります。その中の〔御社宮司社〕に、「伊雑皇大神(オクハサ゛マと云)」の文言があります。しかし、私は、どう譲歩しても「伊雑皇大神」を「おくはさ゛ま」とは読めません。

 長野県『長野県町村誌』を読む機会がありました。確認すると【御社宮司社】に「伊雑皇大神(オクハサ゛マと云)」とあり、小口伊乙さんはこれを引用したことがわかりました。

「おくわさま」

 明治11年の奥書がある、長野県庶務課『諏訪郡村誌』があります。草稿本ですから、後の『長野県町村誌』〔諏訪郡〕ということになります。
 〔豊田村〕の[社]を読むと、「千鹿頭社内ノ一小社 オクハサマト云 ヲ合セテ御頭七御社宮司ト云」とある文言に目が留まりました。傍線を付けた意図は不明ですが、濁点のない「サ」で書いています。


 次は、上記の「千鹿頭社内ノ…」に続く〔御社宮司社〕です。「文出ニアリ」とあるので、旧文出村の御社宮司社です。ここにも「伊雑皇大神(オクハサマト云)」が登場します。


 両文ともに濁点がありませんから、当時の読みは「おくわさま」でしょう。そう認識すると、頭が勝手に変換して「これは、御鍬様」と知らせてくれました。

 その「御鍬様」ですが、『原村誌』を読んだ際に得た「江戸期に流行(はや)った」程度しか覚えていません。改めて調べると伊勢の伊雑宮(いぞう・いざわのみや)が発信地で、祭神は天照大神(伊雑皇大神)です。これで伊雑皇大神を祀る社を「オクハサマ」と呼んだ要因がわかり、「オクハサマは御鍬様のこと」と断定できることになりました。

 この流れで、草稿本『諏訪郡村誌』が『長野県町村誌』として活字化した際に「サ→サ゛」と誤植、または「サ゛」が“正”と校正されたことが明らかになりました。

平成の『豊田村誌』

 昭和・明治と行ったり来たりした本稿ですが、平成の豊田村誌編纂委員会『豊田村誌下巻』〔(文出)御社宮司神社〕に目を通すと、

祭神 出速雄命、伊雑皇大神(いぞうおおかみ)、地元ではおくわさまともいう。

と適切な言い回しで、「いぞうおおかみ」と「おくわさま」を書き分けています。

 ところが、〔(有賀)千鹿頭神社〕では「伊雑皇大神(おくはざまおおかみ)社・千鹿頭社の内のおくはざま社」と『長野県町村誌』のままです。この違いは、複数の執筆者がそれぞれを分担して書いたために、認識(力量)の差が出たということでしょう。

御鍬社

 手持ちの写真として、原村の御鍬社を用意しました。

御鍬の森
「御鍬の森」(諏訪郡原村)space↑御鍬社

 菖蒲沢歴史会『菖蒲沢之石佛誌』からの抜粋です。

 村の東の森を昔から御鍬の森といゝ伝え、主神は百姓の神豊受大神を祭り、(中略)
 お鍬様は伊勢講で祀ったもので、伊勢の豊受大神は百姓の守り神として代参人を立てゝ遠い本社にお参りした。

 諏訪の御鍬社は、勧請の謂われとしては上文と大差ないと思います。全国的には「御師などが伊勢神宮の神事に使った鍬と称して村継ぎで送り、その終わりの土地で神社に納めた」という話があります。

鍬神祭

 ネットで探すと、江戸中期の国学者である天野信景著『神祇祭祀略記』が閲覧できます。その中にある〔鍬神祭〕を、類似の史料を参考にテキスト文に変換してみました。当文には意味をなさない語句があるので、写本の可能性があります。

 元禄十六年癸未(1704)の秋、美濃国恵名郡神野村より鍬神とて祭り申し、村駅を伝え上州高崎に至りし、有司(※役人)怪しと追い返して禁ぜられし、
 其の初めは大神宮神田(ミトシロタ)の神事に用いし物とて桑の木の鍬形を師祷家(御師?)近世近き国里に販附を土民田圃を持ち回り豊作を祈り、村より村へ送り渡し戯芸を能(よ)く祝い、終りには其の処の神祠に納め置きなどす、
 根元本鍬を神として祭るのみあらず、村民愚かわしく神の如く崇む、世の人諸社の大麻等を謀計の奸民他計なく祭り渡らせし也、鍬神の名さえ申し来たりて民の惑となりしべし、