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旧神之原村「御社宮司社と上御前社」 茅野市玉川神之原

 諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 茅野町玉川篇』〔神之原・荒神〕から、「七社明神社」の一部を転載しました。

1.所在
 神之原区字中御前に鎮座の社で、当区の産土神である。しかし、この社は祭神は建御名方命であるが、その名の示す如く七社を祀ったもので、明治十五年までは各別に鎮座していたものである。

2.祭神(略)

3.由緒
(前略)承応年間(1652-1655)には氏神が六社であったこと、更に御小屋明神が当村の管理のもとにあったことが明らかである。氏神六社は左の六社を指しているものと考えられる。祭神は神社明細帳による。

上御前社(妻科姫神)
御別当社(建志名神)
御社宮司社(箭津安賀多神)
七社明神社(建御名方命・中御前社トモ称シタ)
荒神明神(祭神不詳・当社又大荒神様トモ云ウ)
青木ノ山ノ神(子ノ神区寝神社ノコト)

  (中略)要するに七社明神は承応の検地目録をもとにして考えるときは、氏神六社と御小屋明神とを合わせて七社明神と称したのではあるまいか。

神原村 荒神新田
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』〔神原村 荒神新田〕

 ということで、『諏訪藩主手元絵図』から、上御前社御社宮司社に相当する「上ノ御社・御社クジ」を上部に、最近取り上げた「御別当宮・荒神」を下部に入れたものを転載しました。
(注二頁を合成し、上を東に調整してあります)

御社宮司宮跡

 「御社宮司宮跡」とある標柱の存在は、何年も前から知っていました。ただ、それを『諏訪藩主手元絵図』に載る「御社クジ」に結びつけることはなく、自宅から蓼科方面へ行く際にチラッと眺めるだけの存在でした。

 新聞で神之原区が設置した史跡の標柱が何基かあることを知り、その一つが「史跡 御社宮司宮跡」と理解しました。「それを記念して」ということではありませんが、ほかならぬミシャグジです。その脇に立って四方を眺めることにしました。

神之原「御社宮司宮跡」

 阿弥陀堂を右に見ました。曲がりくねっていますが、この道を進めば、絵図にある「御社クジ」の“前”を通ります。ただ、すでに「田圃の中にポツンとある」ことがわかっていますから、早道として上写真の高規格道路を選びました。写っていませんが、茅野市消防署が右にある交差点です。

神之原「御社宮司宮跡」 「跡」の標柱を見るだけという今回の踏査となりましたが、長年のガラス越しに見るだけという行為に終止符を打つことができました。
 諏訪市の旧大熊村では、当時の青年団が「七御社宮司跡」の標柱を設置しました。ここでは神之原区の設置ですが、私のような旧跡地を訪ねる者にとっては良き指標となっており、改めて感謝の念を捧げました。

上ノ御別当宮

2.上御前社
 神之原の村上にあった社であるが、明治十五年に七社明神の境内社となって以来その跡を止めないのは御別当社と同じであるが、根元記に見える「タルノゴゼ」「上ゴゼ」「下ゴゼ」などのように、神社に「御前」の名を附するのは如何なるむきに限られたものかは考究の要があると思う。
遠景は八ヶ岳

 御社宮司宮跡から、古絵図にある道に戻ることにしました。一つ手前ですが、ポコポコと連なる林の脇を東へ向かう砂利道に注目しました。私を誘(いざな)っているように見えたからです。

上御前宮跡 左方に消防署の各施設を遠望しながら進むと、小山の中に続く轍(わだち)があります。「これは怪しい」と踏み込めば、木々の間から新しい住宅が並んでいるのが見えました。その住宅地の向こうが、阿弥陀堂から東へ向かう道のようです。

 右方に標柱らしきものが見え隠れしていますが、すぐに駆け寄るのを堪(こら)えました。ここへ来るまでに同規格の石柱を目にして「あった」と喜んだのですが、読んでみれば「◯◯家先祖代々之墓」だったからです。

上御前宮跡 この先は資材置き場で行き止まりと見て、おもむろにその前に立つと、「史跡 上御前宮跡」でした。遷座前の景観を知りませんが、平成が終わりという時代でも、この場所に神社を造営した理由が理解できました。

 『諏訪藩主手元絵図』では、「上ノ御社・下ノ御社」と書いています。同書の〔真志野村〕では御社宮司社を「御社」と表記していますから、自然と御社宮司を連想してしまいます。その昔は“神之原の七ミシャグジ”だったのでしょうか。