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田辺の古社「武居ノ鎮守」 諏訪市湖南田辺 31.4.6

 『諏訪市史 上巻』の図録『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世編)』の一部です。
 鳥居にを付ける際に、根元に、この地図本来の鳥居があることに気が付きました。調べると、国土地理院2.5万分1地形図にも載っています。“国”も認める歴史ある神社ということでしょうか。因みに、長野県神社庁のリストには存在していません。

鎮守社参拝 31.3.16

鎮守社
(↑)参道

 八竜社からの巡拝なので、南側に参道があるのはわかっていましたが、まだ耕作前なので畦上を歩いてショートカットしました。

鎮守社 まだ大木とは言えないケヤキですが、それでも、葉が萌え揃えば格好のランドマークとなる大きさです。その下にささやかな鳥居と御柱があり、板宮が鎮座していました。
 三方が田圃なので、ここにいる間は、とにかく風通しがいい神社との印象を持ち続けました。

鎮守社とは

 社頭にある湖南地区健康文化推進会議が設置した案内板『鎮守社』を転載しました。

 鎮守社の祭神は海童命(河童神)である。この鴨池附近は昔は大きな沼で人々になじみにくく河童伝説が生れて苦しんだので信心深い田部の人々が守り神として海童命を祀ったものと思われる。
 海童命は本来は水神の一族であり長い間に妖怪化したと伝えられるが又安曇族の一族との説もある。
 昭和の初年頃鴨池には河童が住むと伝えられていた。

 これを読む限りは「河童伝説があるだけの神社」です。次は、『諏訪史蹟要項』からの抜粋です。

5.鎮守社
 四ツ家社の南方蒲原にあって、祭神は海童命と云い、往時の田辺の氏神であったと伝えられる。千野氏所蔵祝詞段に、武居の鎮守とある(略)
 エビス島に続く地名は武居田と古城で、古城付近は曽根という別名が残っている。(略)
 往代武居の庄と呼ばれた聚落は現代にないが、その名を留めるものに武居城趾と武居田がある。武居の庄の田の部四ツ家の人々が開発した田を武居田と云ったのではあるまいか。(略)
 時代が進んで宮川の流れが漸く固定するに及んで上流高保田のあたりに安住の地を求めて移り住むに至った。或いはまた、ここから踏み出(い)でて下流を開発し、文出の基を拓いた人もあったかも知れぬ。(略)
 地名の高保田については、諏訪神御神渡の条に、享禄三年十二月八日当社浜武居の庄高保田渡より下御下社浜外河渡上御とある。高保田の地名は田辺聚落の中程にある。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項十七 諏訪市湖南篇』〔田辺〕

 ここには、中世までさかのぼれる「武居庄の鎮守社」と書いています。

『祝詞段』に見る「鎮守社」

 『諏訪史蹟要項』が『祝詞段』を取り上げているので、原文を読んでみました。

武居ノ鎮守・藤島明神・若宮サンソン・武居蛭子・守矢之大神(・?)戸澤トノ・大熊七御社宮神・大天白・十二所権現・マジノ野明・立テ權現・クルミ澤ノ御社宮神・有賀之郷ニウリニウタイ・チカト・若宮…
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第三巻』

 このブロックは、宮川左岸の神社を挙げています。また、順番が下流から始まっているので、『諏訪史蹟要項』が書いている「鎮守社は武居ノ鎮守」で間違いないでしょう。長らく「武居ノ鎮守」を比定できなかった私ですが、これで解決しました。

旧「武居庄」の鎮守社

鎮守社
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』〔田部村〕

 『諏訪藩主手元絵図』にも「鎮守」として書いてあります。しかし、この時代の田部村鎮守は「(御頭)御社宮司社」ですから、“何の鎮守”なのかがわかりません。
 現在は田辺(たんべ)の人しか知らない小社ですが、これを武居庄の鎮守社だったとすることで、現在の田辺の歴史の深さを再認識することになりました。

 ここで「武居庄とは」を持ち出すと、浅く狭い知識しか持たない私では手に余ります。また、参拝記からは外れるとして、一部だけを挙げてみました。

 田中阿歌麿著『諏訪湖の研究 上巻』〔湖盆の形態及地質〕に、諏訪湖の古絵図が幾つか載っています。その中に「武居」を探すと、[浮城時代の諏訪湖(原図諏訪頼重氏所蔵)]に「是より(より)西武居之庄」を見つけました。(拡大図は180°回転させたので方位が逆になります)
 現在と異なる川の流路がよくわかりませんが、湖岸の名称の一つ「宮川渡」から、マーキングした部分を「武居庄」としました。

 『当社神幸記』では、当社浜として「栗林庄◯◯・武居庄◯◯」がよく挙がり、宮川の右岸が栗林庄で左岸が武居庄とわかります。『御渡帳』の時代になると「武居庄」は使われなくなりますが、湖面の低下で低湿地の固定化が進み、湖岸の地形が変わったことで古来からの名称が合わなくなったためでしょう。