諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社散歩道メニュー /

闢廬社 諏訪郡原村室内 15.5.17

闢廬社 御柱曳行の一コマです。ここに写っている青い帽子は御柱祭の各種役員である証(あかし)ですが、何とも祭りにはそぐわないアイテムだとは思いませんか。
 これを選んだ(仮称)祭典委員会のセンスを疑いますが、「じゃー何にする」と反論されても、これといったものは浮かびません。
 この序文というか前置きには全く関係ないのが、タイトルと同じ、「読めたら偉い!」というハッピに染められた「闢廬」の文字です。

秋尾・闢廬御狩神事

 『諏方大明神画詞』から転載しました。

九月下旬己酉日秋尾の祭御狩あり、大祝以下の大小神官深山にのぼりて三ヶ日逗留す、其の儀御射山に同じ、御庵の圓(円)形一面の庭火のみかわれり、また、饗膳餅・酒・馬草(ママ)・栗稻(稲)、毎人の前に是を積置く、故ある事なるべし、
第三日、朝霧に四方の鹿をまきおとして大葦澤(※現在の中新田大芳沢)にて狩猟す、山路の紫菊霜を帯びて蕭疎(しょうそう※疎らで寂しいさま)たり、嶺林の紅葉風に随って散乱す、折に触れたる景趣感をもよおさずと云う事なし、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

闢廬社

 闢廬社は、諏訪大社上社に属する十三の摂社の一つであり、食物を司る「保食神」を祭神としている。以前は諏訪十郷と呼ばれた地区が交代で祭祀に当たっていたが、室内新田創立以来は室内区の氏神として祭祀が行われている。
 社の名称は諏訪神長官守屋文書によると、秋尾、秋庵、秋穂、闢庵、闢廬等いろいろなものが見られるが、いずれも読み方はアキホである。
 また闢廬社の歴史は古く、同文書によると嘉禎(かてい)四年(1248)九月申日、秋尾御狩神事が行われたことが記されている。
 秋尾御狩神事は諏訪大社年四度の御狩神事の一つで九月下旬に行われたが、現在では八月二十六日から三日間にわたって行われる御射山御狩祭の際、第一日目の上り祭として諏訪大社上社の神職によって執り行われ、御射山神社祭神の一つである大元尊神(國常立命)の御輿が、当日の朝諏訪大社上社を出発し、闢廬社に立ち寄り神事を行う。
 現在の神殿(※本殿)は明治四十一年平林勝四郎によって建てられ、社殿(※拝殿)に入っている。
 この社殿は昭和五十五年に諏訪大社下社の宝殿を移築したものである。

 という原村教育委員会の案内板で、「闢廬」は「あきほ」と読むのが正解です。かく言う私ですが、これを読むまでは「へきろ」でした。

闢廬社 原村の広報誌『はら』に載る〔村文化財 闢廬社〕の記事に誘われて、どんな神社だろうと訪ねてみました。ところが、諏訪大社上社の重要な摂社も奥が透けて見える狭い社地で、闢廬といういかめしい名前から連想した景観はありませんでした。

 『茅野市史』に載る〔諏訪大社〕の項に、「諏訪神社の衰退とともに山中にある摂社は全く顧みられなくなった。新田開発で入植した人々が荒れ果てた社殿を見つけ、驚きとともに嘆きこれも縁と自分達の守り神とした」とあり、一時はその存在が全く忘れられていたことがわかりました。

闢廬社と御射山祭

闢廬社 諏訪大社上社の御射山祭では、闢廬社もそのシンボルである「ススキ」を飾り、地元の氏子は御射山社へ向かう神輿の一行を接待します。
 左は平成19年の写真です。拝殿前に国常立命の御霊代を乗せた神輿が置かれています。祭主は闢廬社の宮司ですが、この時、神輿に同行している諏訪大社の神職から諏訪大社の幣帛が捧げられます。

闢廬社本殿と栃湛木 この日の例祭時にしか本殿を拝観できません。お願いして撮らせてもらったのが、左の「栃湛木残片」です。実は、こちらの方に気を取られていたので、平林勝四郎作という本殿は一部しか写っていませんでした。

 最後になりましたが、社名は「あきほ」で、地名は「へきろ」だそうです。私の読み方は間違っていませんでした。