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(伝)大祝有員の墓 富士見町御射山社 23.5.24

 富士見村誌刊行会『富士見村誌』から、〔御射山付近の史蹟〕の一部を転載しました。

伝大祝有員の墓 境内に方四尺位の石の玉垣に囲まれた所がある。大祝様の御墓として崇厳に考えられている。この墳墓を掘って死んだ人があるといわれている。
 大祝職位伝授書三巻の内(諏訪史料叢書)に「(前略)仁和二丙午年御曽衣(みそぎ)祝有員(ありかず)八拾七歳ニテ御射山大四御廬ニ於テ噸死ス」と記されている。

 御射山社は諏訪大社の摂社という位置づけなので、御射山神社ではなく「御射山社」と表記しました。その境内にある末社の一つ大四御庵社の前に、「大祝有員の墓」があります。

有員の墓と大四御庵社
手前が「伝 大祝有員の墓」(奥は大四御庵社)

 正確には「伝」が頭に付くので、「有員の墓ではない」可能性もあります。そうなると、有員が幾ら「諏訪神社上社中興の祖」と崇められたにしても、「神域の核心部に墓があるのはおかしいのではないか」と考えてしまいます。

 神社の境内にもお墓が(ある場合が)あります。歴代神主家の奥津城ですが、奥の目立たない場所に設けられています。

有員の墓の玉垣 玉垣内を覗き込んでも墓に付きものの墓石はなく、自然石が幾つか意味ありげに置かれているだけです。ここに神祠があってもおかしくない状況(設定)ですが、寄進者が「墓」にこだわったために、(石塔を建てるのもおかしいと)あえて何も設置しなかったのでしょうか。

 玉垣入口の石柱には「大正七年八月・宮本 御射山神戸(ごうど)」と刻みがあります。御射山神戸区『御射山神戸の歴史 2 』では、「宮本御射山神戸」を次のように解説しています。
「古来から一貫して御射山社、原山祭の賦役奉仕に携わってきた。特に御射山社祭では全区をあげて三日間の奉仕をしている。三区長をはじめ山看守人は期間を通じて携わり、特に区長は神官はじめ関係者の接待を膳部小屋で行っている」
 地元民が対象の記念誌なので“阿吽の呼吸”でわかるのでしょうが、部外者には何かスッキリしない説明です。宮本は、御射山神戸区の住民で組織している「賦役奉仕の集団」で、その中の有志が玉垣を寄進したということでしょうか。
 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に、『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』があります。江戸時代の書物なので明解に理解することはできませんが、文中のエリアを「原山(御射山)宮本」と言ったことがわかりました。

一、御射山神戸村 信州舊跡御社山神社
金澤宿之間下手ヶ原五味澤とち(とちのき)村間神戸村原山社宮本と云

 (再び)「伝」とあるからには、現在の玉垣を新設した大正7年以前にはすでに「墓状の物」があったことになります。そこで、江戸時代の絵図が何枚かあるので該当する場所を確認してみました。しかし、いずれも「有員の墓」はありません。
 「絵図に載せる程のものではなかった」とも考えられますが、玉垣にある「大正7年」に、神戸区が何かの記念事業として初めて「墓」として設けた可能性を考えました。大正7年を調べると、全国的には特に際立った出来事はなく、ただ「10月1日−森永ミルクチョコレート発売」だけが目に留まっただけでした。

 以上は、「伝・墓」とあることで広がった“私のこだわり”です。伝承や経緯の詳細を知らない立場であえて「もの申す」と、やはり有員の「墓」ではなく、有員を祀る境内社「有員社」とすべきでしょう。しかし、大祝有員は謎と疑問の人物と言われ、その存在を否定する人もいます。そのため、「伝」の束縛から解かれることなく、『富士見村誌』で言うところの中途半端な「史蹟」ということで落ち着いたのでしょう。


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