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「河原ニ鎮守」は、八劔神社 25.7.20

 中世に書かれた『祝詞段』と『根元記(下)』を、比較しながら読み直してみました。

 断りがない限り、引用文献は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。 ここでは「リュウ」と表記していますが、原本は「リャウ」です。以下に出る「金子ニ鎮守八リャウ」が旧中金子村の鎮守社「八龍神社(長野県神社庁の表記)」なので、「リュウ・竜・龍」と書いても差し支えないとしました。
祝詞段
茅野川ニ…立矢ニナラベ(並)五リュウサンソン金子ニ鎮守八リュウサンソン…文出鎮守小川鎮守河原ニ鎮守高島八劔辯才天七リュウ八リュウ南方ニ五リュウサンソン神々ニチヨノ御神楽マイラスル、
根元記(下)
チノカワ…立テ矢ニナラベゴリュウサンソン金子ニ鎮守八リュウサンソン…文出鎮守小川鎮守河ワラニ鎮守高島ニ八劔辯才天七リュウ八リュウ南方ニワ五リュウサンソンマデ神々ノコシミストキワ、

 この段では、茅野市の千野川神社(亀石明神)から北へ向かう順に「金子→飯→赤→福→文出(踏出)→小(河原)→高」と、各鎮守社の祭神を“呼び出し”ています。「高島八劔辯才天」を挙げた後は、「七リュウ八リュウ」を唱えてから「南方の五リュウ」で締めくくっています。

湖岸を埋め立ててできた【踏出地】が、村名の由来か。

 ここに出る「上川と宮川の間」としても差し支えない神社群を他のグループと比較すると、「島・沼・川」などから、かつては茅野市から諏訪湖まで続く低湿地帯にあったことがわかります。そのため、河川や湖から受ける水害が深刻な悩みであったことは間違いありません。それが、神頼みとなって(一つの表現として)「水神・竜神信仰」の「五竜・八竜」に繋がっていったのは十分考えられます。

「河原」は、「阿原」の誤植(誤字)

大阿原(おおあわら)

 話を、マーキングしたままの(河原)に戻します。実は、「河原に鎮守」が比定できていません。その中で、江戸中期の『諏訪藩主手元絵図』に注目しました。

八劔神社(小和田)
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

 〔小和田村(こわたむら)〕では、赤沼・福島・金子・文出の各村と接する村の右半分(左図)は「大阿原」と書かれ、〔文出村〕や〔福島村〕の村絵図にも、この続きと見られる「阿原」が書いてあります。

 そこで、『祝詞段・根元記』に出る「河原」は、“阿原”の間違いと考えてみました。
 ここで言う間違い(誤字)は、活字化された『祝詞段・根元記』です。原書がどう書いているのかは確認できませんが、編集者が筆字の「阿」を「河」と読んだことは十分考えられます。もちろん、製本段階での誤植もあるでしょう。また、諏訪教育会を弁護するわけではありませんが、今は無い「正誤表」で修正してあった可能性もあります。

阿原

 「あわら」を漢字に変換すると、「荒原・悪原・葦原」などの候補を表示します。この三例から、「阿原」を初めて目にした人も、(すでに)イメージとしても“確定”できたかと思います。
 【阿原】は、“諏訪の表記”では、諏訪湖面が低いと水面に出、ひとたび上昇すると水没する不安定な低湿地のことです。湖面の上昇で収穫が皆無となる年もあるので、年貢高は、その年の状況(検見)で決めたそうです。以上の説明をもって、早々に「河原は、阿原の間違い」と断定しました。

「阿原ニ鎮守」は、弁天町にあった弁天社(ではなかった)

『諏訪藩主手元絵図』 左は、上図〔小和田村〕の左半分の一部です。前記の通り、小和田村の名はあっても人が居住できない阿原ですが、「弁才天」だけが書き込まれています。
 この絵図は江戸時代中期のものですから、『祝詞段』と『根元記』が書かれた中世では、この辺り(小和田村)は一面の“大阿原”であったのは間違いありません。この阿原に唯一鎮座しているのがこの弁天社ですから、「阿原ニ鎮守」を名乗っても異議は出ないでしょう。

 長らくこの弁天社を「阿原ニ鎮守」に比定していました。ところが、小和田地区公民館編『小和田の昔ばなし』を読んで、この弁天社は江戸時代の初期に京都から勧請されたことを知りました。
 結果として推論が外れたことになりましたが、かつては諏訪湖中の高島にあった「八劔神社」が急浮上し、「阿原ニ鎮守」として「高島八劔辯才天」を指していることが確定しました。また、時代が違うとはいえ、弁天社が近接している疑問も氷解しました。